非家の読む『荘子』/中務哲郎

 十五年ほど前になろうか、『荘子』を読むにはどの訳がよいでしょうかと興膳宏先生にお尋ねしたところ、先生は言下に「福永光司先生の本がよいでしょう」とお教え下さった。その興膳先生が福永版『荘子』の解釈に依拠しつつ新たにお作りになった訳注からは、先師に対する深い敬愛と共に、『荘子』を文学として味わおうとする伸びやかな精神が伝わって来る。
 福永版『荘子』は原文と訓読、そして精細な訳解から成るが、訳解の部分は語彙や人名の説明から思想の解釈までを含んで渾然一体、謂わば渾沌流の記述は『荘子』にふさわしいスタイルと言えるかもしれない。それに対して興膳版は、福永版の長大な訳解を明晰な現代語訳と剴切な注に分かち、整然たるスタイルで読みやすい『荘子』を達成している。先達の解釈に基づきつつ新しい訳を作るご苦労はいかばかりであったろうかと思うが、お尋ねすれば興膳先生は、恐らくこんな風にでもお答えになるのではなかろうか。
「福永先生の訳解にも自ずから隙間がありますが、私は刃の厚みをできる限り薄くして、薄い刃を隙間に入れていきました。骨や筋の集中したあたりにぶつかるたびに、作業のむつかしさを思って、きっと心をひきしめ、細かく刀を動かしたのです」
 さて、『荘子』は奇抜な逆説と寓話の魅力で人を惹きつけるが、これはまた先行諸学派に対する論争の書でもある。孔子でさえ老子の前では子供扱いされているから、『論語』のファンにはこれは面白くない書であるかもしれない。しかし、ギリシア文学に親しんできた私などは、中国思想史上の問題とは別に、洋の東西で相似た章句がしばしば現れ、しかもその主旨が異なるところに興味を覚える。
 例えば、「我々の人生には限りがあるのに、知には限りがない。限りあるものによって限りないものを追求するのは、まったく危ういことだ」(内篇養生主篇)。ここから直ちに思い出されるのは、西洋医学の祖ヒポクラテスの箴言「生は短く、術は長い」である。箴言はこの後、「機会はたちまち去り、経験は人をつまずかせ、判断は困難である」と続くから、術(科学的知)の習得には長い時間を要する故、寸刻を惜しんで励め、と諭しているのであろう。ところが『荘子』の方は、「だから求めすぎるな」と言うのである。
 また例えば、「人間はかくも微小な存在でありながら、かくも巨大な領域を追い求めようとするから、ただ惑乱するばかり」(外篇秋水篇)。ここから思い出されるのはニュートンの晩年の感懐である。
「私という人間が世間にどのように見られていたかは知らないが、自分では、浜辺で戯れる少年のようなものでしかなかったと思っている。何ひとつ発見されずに真理の大海が目の前に横たわっているというのに、ちょっと滑らかな小石や、ちょっときれいな貝殻を見つけては気をとられていた少年のようだ」と。
 ここには人間の極小に対する敬虔な思いと共に、限りある人知をもって無限の真理に挑むべしとする気概、あるいは少なくとも、それを後生に託そうとする思いが感じられる。それに対して『荘子』は、探究の可不可以前に、天地は究極の大であるのに人間は馬の毛先ほどの小にすぎぬ、と考えるような人間のしおらしい賢しら、傲慢な無知を笑うのである。物として極大のものでさえ、形をもたぬ実在、すなわち一切の空間的な限定を絶した道の至大の前には大と言えぬので、人間が己れの小を論うなど笑止千万だ、というのである。
 技芸であれ学問であれスポーツであれ、愚の一徹でひたすらしがみついて何とか物になろうとする凡人たちにとって、無為自然の裡に至人・聖人となる荘子の道は、いかに遠くかつ魅力的であることか。
(なかつかさ・てつお 西洋古典学)

『荘子 内篇』(以下「外篇」「雑篇」毎月刊行)詳細
福永光司・興膳宏訳

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