ランボーの影/中地義和

 第二帝政末期のフランスに出現した二人の青年詩人、ロートレアモンとランボー。ごく短い創作期間を経て、一人は夭折し、もう一人も、詩の放棄という別種の夭折によって文学から遠ざかる。激しい衝迫と斬新なイメージに溢れる作品は、いずれ劣らぬインパクトを後世に及ぼし、しばしば並び称される。現代の作家ル・クレジオも、この二人には若いころから格別の関心を寄せてきた。ただし、両者では捉え方が対照的である。
 彼の見るロートレアモンは、処女作の刊行を熱望しながら「詩人ごっこ」を演じる孤独で過剰な若者であり、『マルドロールの歌』は「未成年の書」、「形成途上の宇宙」である。傲岸と自己糾弾、狂気じみた暴力性と壮大な美文調とが絡み合う言語は、異様であると同時に子供の無邪気を秘め、だからこそ魅惑して止まない。ル・クレジオはロートレアモンに関する大部な博士論文を書き上げるが、その原稿の入ったスーツケースが盗まれ、論文提出を断念する。今日の読者は、盗難以前に発表された数本の評論から、幻の学位論文の輪郭を推し量るしかない。
 ル・クレジオのランボー像はというと、読んだものを片端から同化しながら数年のうちに詩の可能性を極め尽くした、恐ろしく早熟な詩人、年若くして完成に達したために沈黙を余儀なくされた作家、というところか。近年のル・クレジオは、むしろランボーに触発されることが多いようだ。たとえば『飢えのリトルネロ』(二〇〇八)では、作者が第二次世界大戦の予兆を聴きとるラヴェルの「ボレロ」と並んで、巻頭にエピグラフ風に配されたランボーの詩「飢えの祭」が、その反復句も含めて、飢えの回帰という小説の主題を凝縮する役割を負っている。
 ランボーの存在が直接かつ濃厚に刻印されているのは、このほど邦訳が刊行された『隔離の島』(〇三)である。話者レオンの祖父ジャックは、小学生のころ、パリの酒場で、酔って店の客を恫喝する「ごろつき」ランボーに遭遇する。幼い眼に刻印された強烈な印象を、後年彼は妻シュザンヌに語り、彼女は「ごろつき」の詩を義弟レオンとともに愛唱する。最初の遭遇から十九年後、長じて医者となったジャックは、船旅の途上、紅海沿岸のアデンの病院で、足に深刻な腫瘍を病み、フランスに戻る船を待っているランボーに再会するが、相手の素性には気づかない。その際、瀕死の病人から不思議な呪縛を受けるのは、弟レオンの方である。やがて船上で天然痘が発生し、一行は目的地モーリシャスの手前の小島に足止めを食う。四十日に及ぶ滞在中に、レオンは土地の娘シュルヤと恋に落ちる。物資窮乏と死の恐怖にさらされた隔離の日々に、レオンの恋愛を通じて決定的になる兄弟間の溝、生まれ故郷への郷愁を越えて新たな生き方に目覚める弟……。
 小説における祖父とランボーとの二度の出会いは、幼いころのル・クレジオが祖母から聞かされて家族伝説となっていた、現実の祖父とランボーとの遭遇から着想されたという。
 ロートレアモンとは違い、ランボーは一個の謎としてル・クレジオを魅了する。ハラルでの野犬毒殺の逸話も、死の床での回心表明がイスラムの神を称えるアラビア語でなされた奇異さも、この人物の闇の部分を増幅する。小説の大枠をなすのは、引き揚げ移民の末裔としてのルーツを確かめるべく、失踪した同姓同名の大叔父の足跡を追う話者レオン(作家の分身)の探索であるが、伝説的人物ランボーは、終始巨大な影のように小説を包み、話者の大叔父への、大叔父のランボーへの、また話者自身のランボーへの一体化という、小説を駆動する三重の希求のいわば磁極をなしている。この磁極が及ぼす遠心的推力が、互いの分身のような二人のレオンを未知へと差し向ける。
 小説とは何よりも世界の発見を語るもの、世界に驚嘆し変容を遂げる人間を描くものという自らの理想を、ランボーという磁場を得て存分に展開した、著者渾身の一作である。
(なかじ・よしかず 東京大学教授・フランス文学)

『隔離の島』詳細
ル・クレジオ著 中地義和訳

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