純粋なる将棋界をめぐる多彩な文章たち/shogitygoo

 二人の棋士が対局後に酒を飲んでいた。かなり酔ってしまった片方の棋士が、「ひどいヘボをやった。〇〇レベルの将棋になってしまった」と当の〇〇に向って言う。「もう一度言ってみろ!」片方の棋士は同じ事を繰り返して言い、言われた側は彼に向って灰皿を投げつけた。プロ棋士(現在は引退)にして希代の文章家の河口俊彦七段が紹介していたエピソードである。
 プロ棋士は将棋の対局に命がけで真剣に取り組む。個人の力と結果が全ての分かりやすすぎる世界。高い自尊心なくしてはやっていけない世界だ。場合によっては強大な自我同士が露骨にぶつかりあうことだってある。
 しかし、プロ棋士はエゴむきだしのイヤな人間では決してない。それどころか、恐ろしく純粋で今時珍しいくらい人がよい。悪口と灰皿をぶつけあった二人もお互いの将棋と才能をちゃんと認めあっている。たまたま、お酒の力で二人の将棋に対するひたむきな情熱がストレートに噴出して衝突しただけ。
 将棋は勝ち負け、白黒のハッキリした世界である。そしてそこには、将棋というゲームの客観的真理がある。勝手な主観的な自己主張をしているだけでは、すぐ負けてしまうだろう。つまり、強烈な自我が必要であると同時に、将棋の真理に客観的な態度で無私の姿勢で取り組む事も求められる。本書の冒頭に収められている中平邦彦の「聖性」を読んでいただければそれがよく理解できるはずだ。
 あまりにも人間的で子供のような素直さを失わないプロ棋士たちはある種の神話的存在である。プロ棋士の島朗は自著に『純粋なるもの』という書名をつけたが、このタイトルほどプロ棋士の本質を的確に言い当てているものはない。
 また、現在でも現役プロ棋士の数は百五十名強、将棋記者も専門性が必要なので少ない。閉じられた世界で、それこそお互い一生つきあってゆく。まして分かりやすい勝負事の世界なので人間としてのありのままの姿をさらすこともあるだろう。
 そういう将棋の世界について書かれた文章が独特の肌合いを帯びるのは当然である。本書のエッセイ作者は皆こういう独特な将棋の世界のことをよく理解し、かつ深い愛情を抱いている。純粋であまりにも人間的でいて、それでいて不思議とドロドロとしたところはない、爽やかなある種のパラダイスのような世界をそれぞれの仕方で活写している。
 プロ棋士には文才のある人が多い。他の世界の仕事でも恐らく一流になるポテンシャルのある人間揃いの天才集団なのだ。また、往年の名将棋記者の文章には、短字数の新聞観戦記で鍛えられた簡潔な表現力があり、ある種の将棋世界の私小説のような個性的なスタイルの魅力があった。
 将棋をめぐる文章の独特な味わいは、なかなか他の世界にはないもので、将棋ファンだけが読んでいるのには惜しいと思う。
 編者は将棋観戦記者(将棋のネット中継にも中心的に深く携わってきた)の後藤元気。四十二編の将棋エッセイを集めている。後藤自身、「将棋の文章を読むのも実に楽しい。時間が許すならいつでも読んでいたい」という人間である。その広範な将棋文章読書体験から、過去から現在に至るまでの実に幅広い将棋文章が集められている。前述した棋士や観戦記者たちの文章だけではなく、有名作家から一般のウェブ上での書き手(私もその一人)に至るまで。他にもプロ、アマチュアを問わず、ウェブ上の文章が多数収録されていて、それが本アンソロジーの現代的特質になっている。
 文章自体も有名なものから(山口瞳の『血涙十番勝負』等)、将棋界ならではのマニアックなものまで(棋士山田道美の日記等)。
 将棋の技術的な話は最低限におさえられていて将棋ファンでなくても純粋に読み物として楽しめる。本書のエッセイ群は奥深い将棋世界への格好の入門書にもなるはずだ。
(「ものぐさ将棋観戦ブログ」管理人)

後藤元気編
『将棋エッセイコレクション』詳細




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