限定して、独自の世界を。―鬼海弘雄「世間のひと」/山田太一

 鬼海さんの「世間」は浅草である。浅草で出会った人たちである。浅草に住んでいる人もいるが、多くはたぶん浅草へある日やって来た人である。
 ぶらついていて目をつけると声をかける。
 どこか「尖った個性」の「濃い味」の人たちである。いきなりカメラを向けるようなことはしない。スナップではない。むろん相手によっていろいろだろうが少くとも「あ、ちょっとすいません、一瞬だけこっち向いて、止って、パシャ、ありがとうございましたあ」というようなことは鬼海さんは決してしない。声をかけ、沢山聞き、沢山話す。承諾を得て、壁の前に立って貰う。
 そこまでの会話を聞いてみたくなる。
「え? ここでか? 折角なら五重の塔バックにしろよ。壁かよ。なんにもねえコンクリートじゃねえか」
 でも、撮られた人たちはもうそんなことはいっていない。完全に了解して鬼海さんの方を向いてポーズをとっている。これはもう誰にでも出来ることではない。しかもそれぞれが一筋縄ではいかない面々なのである。
 一枚一枚に短い説明がある。
「ただの主婦だというひと」「入金をしに銀行に行く人」「笑い上戸と嗤う女性」「元高校の英語教師」
 アトランダムに引用してみたが、この言葉からどんな人物を想像なさるだろうか。言葉は無力というか言葉あっての写真というか、この一枚一枚に付けられた言葉も必要に満ちていて、鬼海さんの力作なのである。その上ところどころにあるエッセイが面白くて、写真の登場人物――鬼海さんの言葉によれば「王者」たちが379人、448頁の大集成である。文庫になったのだから、これはもうめでたいといわなければならない。大型写真の魅力は損われるのでは、と気がかりだったが、この節の印刷はたいしたもので、王者の風格はいくらか薄まるが、王が400人近いと、この方がかえっていいくらいの長所もあると思った。
 ところで私はこの写真集の土地を浅草であると書いた。しかし人物の背景は壁だと。それは大半の写真については事実だが、はじめの30頁ほどについては正しくない。三社祭の写真も花見の写真もある。壁が背景の写真もあるが町なかの通りの写真もある。
 そのあたりでは「壁で行こう」という方法に失礼ながらためらいがあったのではないだろうか。それからドッと壁背景ばかりになってしまう。普通なら、その地点からこの本をはじめてもいいようなものだが「体裁にこだわらず、粗いネガ帳のように」してみたと鬼海さんは書いている。壁に限定した意味を伝えたかったのかもしれない。壁背景の作に比べると、それ以前の作は凡庸に思えてしまう。
 写真を撮ってそれに作者を刻印するのは至難だと思う。誰でもカメラを持てるのだから偶然の傑作はいくらでもあるだろう。その大海で長きにわたり鬼海さんは生き抜かれたのである。
 その浅草には雷門も仲見世も浅草寺もない、ロックもロックスも旅回りも演芸場も花やしきも人形焼も場外馬券売り場も観音裏も外国人旅行者も祭も雪景色も深夜も早朝もない。
 ただ背景をつぶした「ひと」だけである。
 その「ひと」も当り前だが、鬼海さんのきびしい選別にかなった人物ばかりで、その基準からどんなひとたちに鬼海さんは親しみを感じるかが分り、次第に鬼海さんという人の輪郭が浮び上って来る。
「市井のひとたちをそれぞれの王のように威厳のある肖像に撮りたい」と、なかなかシャッターを切らないので「早くしろ」と怒り出した人もいたそうである。鬼海さんの山形なまりに涙した人もいたという。
 その人たちを決して足元までは撮らない。アップもない。そのサイズでゆるがないのは並々ならぬことだと思う。
(やまだ・たいち 脚本家・小説家)

鬼海弘雄著『世間のひと』詳細


    2008

  • 2008年1月号
  • 2008年2月号
  • 2008年3月号
  • 2008年4月号
  • 2008年5月号
  • 2008年6月号
  • 2008年7月号
  • 2008年8月号
  • 2008年9月号
  • 2008年10月号
  • 2008年11月号
  • 2008年12月号

    2007

  • 2007年1月号
  • 2007年2月号
  • 2007年3月号
  • 2007年4月号
  • 2007年5月号
  • 2007年6月号
  • 2007年7月号
  • 2007年8月号
  • 2007年9月号
  • 2007年10月号
  • 2007年11月号
  • 2007年12月号

    2006

  • 2006年9月号
  • 2006年10月号
  • 2006年11月号
  • 2006年12月号

「ちくま」定期購読のおすすめ

「ちくま」購読料は1年分1,100円(税込・送料込)です。複数年のお申し込みも最長5年まで承ります。 ご希望の方は、下記のボタンを押すと表示される入力フォームにてお名前とご住所を送信して下さい。見本誌と申込用紙(郵便振替)を送らせていただきます。

電話、ファクスでお申込みの際は下記までお願いいたします。

    筑摩書房営業部

  • 受付時間 月〜金 9時15分〜17時15分
    〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
TEL: 03-5687-2680 FAX: 03-5687-2685 ファクス申込用紙ダウンロード