上泉伊勢守のこと/前田英樹
先頃、この『ちくま』誌上で二年間にわたって連載した『剣の法』を大幅に増補し、この春、一冊の本にして筑摩書房から刊行してもらうことになった。自分が行なう剣術に関して、まとまった文章を書くのは、これが最後になろうかと思う。その本について、何か宣伝になるような一文を、という編集部の依頼があったので、少しだけ書いてみることにする。
『剣の法』に書いたのは、新陰流という名の刀法が持つ技法体系とその根本原理についてである。もちろん、こういうことを書くのは容易ではないが、この流儀には、ほとんど幾何学的といっていいほどの一貫した体系性があるから、これを書くことは不可能ではない。また、読めばわかるようにもなっている。それを繰り返し行ない、体の芯に通すことだけが困難であり、また面白いのである。
新陰流の刀法には、上泉伊勢守信綱というはっきりとした創始者がいる。この刀法は、卓絶した明確なる人格の明確なる刻印を持っていると言おうか。が、伊勢守に関する文献資料は、まことに少ない。兵法の世界に口承として伝えられたものが中心になると言っていい。あとは、伊勢守自身の目録書きや同時代人の手によるわずかな記録があるばかりだ。それでなぜ、この人の人格が明確に窺えるのか。遺された刀法の実際によって、はっきりと窺えるのである。『剣の法』で書こうとしたのは、そのことにほかならない。
明治、大正を生きた直心影流の剣客で山田次朗吉という人がいる。この人の『日本剣道史』は名著だが、そのなかで上泉伊勢守を評して言う。「信綱は身の丈六尺膂力他に勝れ、殊に剣道の名家であるに、平生尤も要慎深くしてかりそめにも武術者らしき面地をせしことがない」と。信綱の立ち合いは、殺気立った兵法者ずれの勝負とは無縁、神韻縹渺とした空気のなかに相手を包み込み、心服させる。ゆえに、この人は、真剣を抜く相手にも革袋に割り竹を差し込んだ自身工夫の撓をもって応じたという。
山田次朗吉も力を入れて紹介している信綱の有名な逸話に、次のようなものがある。信綱が従者ひとりを連れて尾州妙興寺のそばを通りかかった時、乱心したひとりの盗賊が、村人に追い詰められ、童を人質にとって納屋に立てこもっていた。近寄れば、童子を刺し殺すというので、誰も納屋に踏み込むことができない。童の父母が、何とかできぬかと旅の信綱に懇請する。信綱は軽く引き受けて、通りがかりの旅の僧に衣を拝借したいと言い、村人には握り飯をふたつ作るよう命じる。
頭をきれいに剃り上げ、僧衣をまとった信綱は、身に寸鉄も帯びず、握り飯ふたつを持って、盗賊が立てこもる納屋の内に無雑作に入っていった。逆上して刃を向ける盗賊に、案ずるな旅の僧じゃ、童が腹をすかしておろう、握り飯をふたつ持って参った、お前も食べるがよい。そう言って、まずひとつを投げ、盗賊がそれを左手に取った時、すかさずもうひとつを投げてよこした。それを取ろうと、賊があわて気味に右手の野刀を離した刹那、伊勢守の体が浮くように迫り、その右手をもって賊の右手を捕え、抑え込んだ。童には、かすり傷もない。信綱は旅僧に衣を返すと、さっさとその場を立ち去った。永禄七年(一五六四年)秋、伊勢守五十六歳の時のことだった。
この話は、江戸中期の兵法家列伝『本朝武藝小傳』(日夏繁高著)のなかにある。そのもとの記述は、それよりずっと古い『明話之目録』(三谷正直著)の巻頭にあって、これは伊勢守の道統を継いだ尾張柳生家が代々家蔵してきたものだ。だから、この逸話は、映画や小説のでっちあげではない。新陰流の正式の伝承のなかで信じられてきた流祖の史実であり、教えなのである。
兵法の外にある乱心者を、無傷にして取り押さえることは、いたってむずかしい。まして人質の童に刃が突きつけられていれば。手が手に触れる瞬間に、敵を崩して動きを制する、この技量がなければ、ふたつの握り飯は、用をなさなかっただろう。上泉伊勢守の人格と刀法は、このようなものだった。
(まえだ・ひでき 批評家)
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