理性と弁証論―カントが伝えたかったことを伝える翻訳/渋谷治美
訳者の石川文康氏は、この翻訳の仕事を九九・九パーセント成し遂げたところで、永眠された。昨年二月一〇日のことであった。享年六六歳であった。お亡くなりになる二カ月前に交わした約束により残りの〇・一パーセントを務めた者として、哀悼の意を込めてこの文章を綴る。
日本の現代のカント研究界における石川氏の地位は、『カント入門』(ちくま新書、一九九五年)と『カント 第三の思考』(名古屋大学出版会、一九九六年)の二著で不動のものとなった。後者はトリア大学で取得した博士論文を中心として構成された専門書である。筆者の多少の経験からいうと、前者ほど、薦めた相手が学生であれ産業界のリーダーたちであれ、読了後に例外なく「面白かった、カントが分かった気がする」と喜ばれた入門書は他にない。当然のことながらこの入門書は、後者の『カント 第三の思考』で展開された独創的で斬新なカント解釈を全面的に下敷きにしている。
では、石川カント解釈の醍醐味はどこにあるか。
石川氏はこの書において、いかにしてカントが人間の理性につきまとう弁証的仮象を発見し、批判・克服したかを、主にアンチノミー(二律背反)論を主戦場にして、徹底的に無限判断(Sは非Pである)を武器としながら明らかにする。さらに氏は、カント特有の時空概念のコペルニクス的転回、物自体というアスペクト、カテゴリーの演繹等、要するに超越論的観念論の骨格は、すべてこの苦闘から導かれた副産物に他ならない、とする。カント研究書として世界レベルでも三十年に一冊ほどの名著だと思う。
話を氏の今回の『純粋理性批判』の訳業に戻そう。カントの主著のなかでも極北に位置する本書の邦訳は、昭和初期以来これまでに九種ある。つまり本翻訳は、邦訳十番目に当たる。したがって世の読者の関心は、今回筑摩書房から石川訳を出す意義はどこに存するか、にあるであろう。
筆者が思うに、それは、訳者がカントの思索の息遣いを感知したうえで、これまでの邦訳よりも一段と歯切れのいい文体の日本語に訳してくれている、という点に存する。当然なことに、なかでも弁証論の訳文が活き活きとしている。その様を一つ例示しよう。
全体としては評価の高い既存訳の一つに、次のようにあった。
「普通の悟性は、経験認識とその合理的脈絡以外の何ものによってもおのれを満足させてくれると約束しない企図を熱望して受け入れ、だからこれに反して、超越論的独断主義が悟性には、思考に熟練した頭脳の持ち主たちの洞察と理性能力とをはるかに越え出ている諸概念へと上昇することを強要することはないと、一般にはそう信じられているはずであるのに、それにもかかわらず、経験論はまったく人気がない」(弁証論の一節A472B500)。
ここを石川氏は次のように訳す。
「常識は、経験認識とその合理的な脈絡によってのみ自らを満足させることを約束する構想をしきりに採用したがる、と思われるはずなのに、経験論はあらゆるポピュラリティーにまったく反している。今言ったことは、超越論的独断論が、思考に長けた頭脳の洞察と理性能力をはるかに超えた概念へ上昇するよう、常識を強いるのと対照的である」
筆者は、本翻訳は間違いなく邦訳ベスト三に入る、と思う。ちなみに、付録として掲載されている「ある哲学書の物語」も、『純粋理性批判』の解説として味のある文章である。
こうして振り返ってみると、石川氏はたしかに、日本に限定されず世界を見渡してみても、〈カントが分かった〉稀有なカンティアーナの一人であった。
石川氏にはカント研究とは別に、『そば打ちの哲学』(ちくま新書、一九九六年。現在、ちくま文庫)という本がある。これも、魅力あふれる文体とともに、蕎麦を通しての深い人間観察が窺える名著である。この人間観察力を原動力とした、カント哲学に裏打ちされた「人間哲学」の体系を世に問うて欲しかったと思う。(しぶや・はるよし 埼玉大学教授)
イマヌエル・カント著 石川文康訳『純粋理性批判(上・下)』詳細
ご注文方法はコチラ
トップに戻る
バックナンバー
- 第637号24年4月号
- 第636号24年3月号
- 第635号24年2月号
- 第634号24年1月号
- 第633号23年12月号
- 第632号23年11月号
- 第631号23年10月号
- 第630号23年9月号
- 第629号23年8月号
- 第628号23年7月号
- 第627号23年6月号
- 第626号23年5月号
- 第625号23年4月号
- 第624号23年3月号
- 第623号23年2月号
- 第622号23年1月号
- 第621号22年12月号
- 第620号22年11月号
- 第619号22年10月号
- 第618号22年9月号
- 第617号22年8月号
- 第616号22年7月号
- 第615号22年6月号
- 第614号22年5月号
- 第613号22年4月号
- 第612号22年3月号
- 第611号22年2月号
- 第610号22年1月号
- 第609号21年12月号
- 第608号21年11月号
- 第607号21年10月号
- 第606号21年9月号
- 第605号21年8月号
- 第604号21年7月号
- 第603号21年6月号
- 第602号21年5月号
- 第601号21年4月号
- 第600号21年3月号
- 第599号21年2月号
- 第598号21年1月号
- 第597号20年12月号
- 第596号20年11月号
- 第595号20年10月号
- 第594号20年9月号
- 第593号20年8月号
- 第592号20年7月号
- 第591号20年6月号
- 第590号20年5月号
- 第589号20年4月号
- 第588号20年3月号
- 第587号20年2月号
- 第586号20年1月号
- 第585号19年12月号
- 第584号19年11月号
- 第583号19年10月号
- 第582号19年9月号
- 第581号19年8月号
- 第580号19年7月号
- 第579号19年6月号
- 第578号19年5月号
- 第577号19年4月号
- 第576号19年3月号
- 第575号19年2月号
- 第574号19年1月号
- 第573号18年12月号
- 第572号18年11月号
- 第571号18年10月号
- 第570号18年9月号
- 第569号18年8月号
- 第568号18年7月号
- 第567号18年6月号
- 第566号18年5月号
- 第565号18年4月号
- 第564号18年3月号
- 第564号18年3月号
- 第563号18年2月号
- 第562号18年1月号
- 第561号17年12月号
- 第560号17年11月号
- 第559号17年10月号
- 第558号17年9月号
- 第557号17年8月号
- 第556号17年7月号
- 第555号17年6月号
- 第554号17年5月号
- 第553号17年4月号
- 第552号17年3月号
- 第551号17年2月号
- 第550号17年1月号
- 第549号16年12月号
- 第548号16年11月号
- 第547号16年10月号
- 第582号19年9月号
- 第546号16年9月号
- 第545号16年8月号
- 第544号16年7月号
- 第543号16年6月号
- 第543号16年6月号
- 第542号16年5月号
- 第541号16年4月号
- 第540号16年3月号
- 第539号16年2月号
- 第538号16年1月号
- 第537号15年12月号
- 第536号15年11月号
- 第535号15年10月号
- 第534号15年9月号
- 第533号15年8月号
- 2019年8月号 No.581 目次はこちら
- 第532号15年7月号
- 第565号18年4月号
- 第531号15年6月号
- 第530号15年5月号
- 第529号15年4月号
- 第528号15年3月号
- 第527号15年2月号
- 第526号15年1月号
- 第525号14年12月号
- 第524号 14年11月号
- 第523号14年10月号
- 第522号14年9月号
- 第521号14年8月号
- 第520号14年7月号
- 第519号14年6月号
- 第518号14年5月号
- 第517号14年4月号
- 第516号14年3月号
- 第515号14年2月号
- 第514号14年1月号
- 第513号13年12月号
- 第512号13年11月号
- 第511号13年10月号
- 第510号13年9月号
- 第509号13年8月号
- 第509号13年8月号目次
- 第508号13年7月号
- 第507号13年6月号
- 第506号13年5月号
- 第505号13年4月号
- 第504号13年3月号
- 第503号13年2月号
- 第502号13年1月号
- 第501号12年12月号
- 第500号12年11月号
- 第499号12年10月号
- 第498号12年9月号
- 第497号12年8月号
- 第496号12年7月号
- 第543号16年6月号
- 第495号12年6月号
- 第494号12年5月号
- 第493号12年4月号
- 第492号12年3月号
- 第595号20年10月号
- 第491号12年2月号
- 第490号12年1月号
- 第489号11年12月号
- 第488号11年11月号
- 第487号11年10月号
- 第486号11年9月号
- 第485号11年8月号
- 第484号11年7月号
- 第483号11年6月号
- 第482号11年5月号
- 第480号11年4月号
- 第479号11年3月号
- 第478号11年2月号
- 第478号11年1月号
- 第477号10年12月号
- 第476号10年11月号
- 第475号10年10月号
- 第474号10年9月号
- 第473号10年8月号
- 第472号10年7月号
- 第471号10年6月号
- 第470号10年5月号
- 第469号10年4月号
- 第468号10年3月号
- 第467号10年2月号
- 第466号10年1月号
- 第465号09年12月号
- 第464号09年11月号
- 第463号09年10月号
- 第462号09年9月号
- 第461号09年8月号
- 第460号09年7月号
- 第459号09年6月号
- 第512号13年12月号
- 第456号09年3月号
- 第458号09年5月号
- 第455号09年2月号
- 第457号09年4月号
- 第548号16年11月号
- 第548号16年11月号
- 第454号09年1月号
- 第520号14年7月号
- 対談
- 第509号13年6月号
- 第524号14年11月号
- 第548号16年11月号
- 第565号18年4月号
以前のPRちくま
「ちくま」購読料は1年分1,100円(税込・送料込)です。複数年のお申し込みも最長5年まで承ります。 ご希望の方は、下記のボタンを押すと表示される入力フォームにてお名前とご住所を送信して下さい。見本誌と申込用紙(郵便振替)を送らせていただきます。
-
受付時間 月〜金 9時15分〜17時15分
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3