1500年前から変わらない風景・古墳を自室の窓から眺めながら、女子高生の惠理はブログを綴っていた。ある日、「インディアナ」というハンドルネームで、濠の向う側からコメントが寄せられる。その奇妙な隣人は、「歴史的な大発見」を求めて探査活動を続けているという。ストーカーまがいかといぶかる惠理だが、考古学を紐解くようなコメントの内容に興味津々。いつの間にか、惠理に片想いのクラスメイト・倉内とともに、インディアナの正体をめぐる冒険に踏み出していた。そして冒険の物語はいつしか、……?! 女子高生のコミカルな大阪弁で赤裸々に綴る、古代史ミステリ&恋愛コメディREMIXの新鮮な一編。
永瀬直矢(ながせ・なおや)
1972年、東京都生まれ。35歳。
早稲田大学教育学部卒業。
昨今「文学の役割は終わった」といった主旨のコメントを目にする度に臍から特濃のエスプレッソが抽出されて困っています。それから「私は社会に訴えたいことはなにもない」という文筆業の方のインタビューを読んだときも開いた口が安来節でした。もしかしたら何かの冗談だったのかもしれません。けれども字句通りの意味とすれば特に後者の一文は非常に難解です。なぜならコミュニケーションを前提としない表現はありえず、このコミュニケーションの総和こそが社会と呼ばれるものだからです。噂が本当ならサリンジャーは今も発表する意志のない作品を書き続けているそうですが、そのテクストにしても他者に読まれることを前提に紡がれていることに変わりはありません。また、キルケゴールが「自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である」というほぼわからんちんの表現で述べんとしているように、そもそも自己とはそれ自身でにょっきり自立している存在ではない、つまり私たちの誰ひとりとしてこの社会から身を引き剥がしてその外に立つことなどできない、というか元々外なんてない。だから社会とはむしろ人間存在のあり方そのものを指す言葉なのです。ほんとです。こうした自己と社会の関係に似て、あるいは哲学を学ぶ人は一握りにすぎずとも日々自らの生の意味を問わない人がいないのと同じく、人が人である限り芸術、ひいては文学(と呼ぶところのもの)は常に影のごとく私たちにつきまとって離れないように思われます。そしてこのブンガクなるものにしか開けない地平が確実にあり、私たちはそこで頁を捲りながらこれまでと見た目は寸分変わらないものの似て非なる未知の世界を見晴るかし、一つの物語を終える度に自らを取り巻く現実を更新する手がかりを掴むのです。おもしろきこともなき世をおもしろく。嘘じゃないです。
なので、ビバ☆文学。
「作品を通してさらに深く社会と関わっていきたい」
考えてみれば至極当たり前の内容ではありますが、右の言葉を受賞の抱負とさせてください。
本を閉じたときから再び始まる読み手その人自身の物語に少しでも脚色を加えられるような作品を私も書きたいです。
皆様にもフォースの共にあらんことを。
五月某日永瀬直矢