小説という世界の豊かさと多彩さを入門者に広く紹介するために、古典的名作から現代の小説まで取り揃えた『ちくま小説入門』が先に上梓〔じょうし〕され、幸いなことに好評を得た。本書はその発展編として編まれた。

入門編より少しだけ収録作品の分量が多くなっただけではなく、本書に収めた小説はちょっと手ごわさと、ほろ苦さが増していると感じる読者がいるかもしれない。編者たちの好みの偏りとばかりいえない理由が、ここにはある。

世の中で読まれる小説の大多数は、描かれる人物もストーリーも違和感のない、親しみやすい作品である。「おもしろさ」を求める読者に応えた感動や興奮が、そこには商品としてパッケージされている。涙や笑いや恐怖で退屈を慰めたり、悩みに分かりやすい答えを与えたり、ファンタジー世界に居場所をこしらえたり、書物があまり読まれなくなったといわれる現代でも、小説は相変わらず人気者である。

しかし小説は、だれも直面しなかった人生の難局や世界の深層に潜む亀裂に直面したり、既成の「おもしろさ」の価値に異議申し立てをしたり、ときには小説という表現様式そのものを壊すような冒険に赴いたりすることがある。本書に収められた作品の全てとはいわないまでも、小説の既成概念からはみ出た作品が含まれているはずである。分かりやすい安直な娯楽として大多数から愛されることに飽き足りず、そのような小説が書かれるのはなぜだろうか。

それはまさに小説が人生と世の中の縮図であり、時代の鏡であるからだ。たとえどんなに非現実的な空想世界に埋没している小説であっても、そのような空想を切実に望まずにおれない同時代の欲求と渇きが敏感に反映されている。振り返れば産業革命以来の人間を取り巻く環境は、つねに文明の進歩と生活の変化にさらされてきた。軋〔きし〕み音を立てるその変貌に、小説はいつも寄り添いつづけてきたのである。いちはやく変化に順応する者と、変わるまいと抵抗する者との断絶は、いつの時代もあった。迫りくる未知なる変動への不安も、絶えることはなかった。本書に収めた作品は、それぞれの時代と切り結んだすぐれた洞察であり、証言だといえる。

また小説は、語る言葉の力だけで虚構の世界へ読者をいざなう芸術である。その語りの技術もまたつねに進化し、更新を余儀なくされてきた。ひとたび万民を酔わせたスタイルも、すぐに古びてしまう。小説家は読者にお望みの商品を提供する職人であるだけでなく、移り変わる時代と心の予兆を察知し、清新な表現を開拓するクリエイターでもなければならないのだ。

ここに収められた作品を通して、一世紀以上のあいだに小説が築いてきた創造の成果を味わってもらいたい。

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