浪速のスーパーティーチャー守本の授業実践例

第四章 評論

2 「異文化としての子ども」 本田和子

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④補助線を引く――『モモ』(ミヒャエル・エンデ)の遊び

 教室では、「身体の想像力」を働かす子どもの世界を実感するために、ミヒャエル・エンデの『モモ』を補助線として用いることも効果的だと思います。

 『モモ』は、合理性を追求する近代文明の物理的な時間と、自然(宇宙)と一体化した円環時間との対比の中で時間をめぐって展開する泥棒と少女との物語です。この時間の構図は、ただ流れ去る大人の時間と、瞬間の「いま」に滞在する、豊かで厚みのある子どもの時間というこの評論の時間の主題と一致していて興味深いのですが、ここでは「時間」より「想像力」の方に焦点を当てて考えてみます(「時間」については、この連載の最後の方で「宮崎駿の世界―子どもから大人へ」と題して触れる予定です)。

 『モモ』について、エンデ自身は自らの思想信条とは離れて、物語の論理、面白さにこだわって書いたといっていますが、その実『モモ』は、エンデの子ども観や世界観が色濃く投影された、かなり理屈っぽい話です。この作品は、今なお絶大な人気があるのですが、それは子どもたちには理屈はわからないが、豊かな想像力に富んだ物語そのものに魅了されているということなのです。

 『モモ』では、子どもの遊びについて二つの例を挙げています。

 一つは、モモが寝起きしていた円形劇場を船に見たてた「航海ごっこ」です。その時、夕立が子どもたちを襲ったのですが、そこから「航海ごっこ」は「暴風雨ごっこ」に転じていき、子どもたちの興奮も頂点に達していきます。遊びが終わったときの参加した女の子の言葉です。

 「ほんとに雨がふったらしいわね。あたし、びしょぬれだわ。」
 じっさいに、遊んでいるまに夕立が来たのです。とりわけ妹づれのこの女の子は、鋼鉄の船にいたあいだ雷やいなずまがこわいこともすっかりわすれていたことに、いまさらながらおどろきました。(ミヒェエル・エンデ/大島かおり訳『モモ』岩波書店44頁4行目)

 「航海ごっこ」の最中の夕立を暴風の荒海に転じる想像力は、まさに身体に根ざしたものでしょう。「異文化としての子ども」に描かれた「砂場」や「消防署ごっこ」の子どもたちを連想させ、エンデの目の確かさに驚かされます。

 この「身体の想像力」に根ざす遊びと対比されるもう一つの遊びが『モモ』には出てきます。町の人たちから時間を奪うことをモモに邪魔されたと思った「時間泥棒」(灰色の紳士)が、モモを自分たちの側に取り込もうとして、「完全無欠の『ビビガール』」という、いくつかの会話が仕込まれている人形を使ってモモを籠絡する場面です。「完全無欠」というのは、人間そっくりで、オプションが何でも豊富にそろっているということですが、ここにも現代の子どものおもちゃ事情の風刺を感じさせられます。

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