ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 定番教材の誕生 第5回(2/5)
第1回 “恐るべき画一化”―定番教材はなぜ消えない
第2回 “生き残りの罪障感”―定番教材の法則
第3回 “復員兵が見た世界”―定番教材にひそむ戦場体験
第4回 “ぼんやりとしたうしろめたさ”―定番教材の生き残り
第5回 “豊かな社会の罪障感”―定番教材のゆくえ
野中潤(のなか・じゅん)
聖光学院中・高教諭
日本大学非常勤講師
著者のブログ
BUNGAKU@モダン日本
第5回 “豊かな社会の罪障感”―定番教材のゆくえ
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なぜ敗戦直後に定番化しなかったのか

 ただし、もしもそのような読み方が可能だとしても、いったいなぜ、「こころ」や「羅生門」や「舞姫」が定番化への道を歩み始めたのは敗戦直後の昭和20年代ではなく、昭和30年代になってからだったのかという疑問は残ります。「こころ」や「羅生門」などの定番教材が昭和20年代に誕生しなかったのは、いったいどのような理由によるのでしょうか。

 ひとつには、新しい教材が見出されてから所定の手続きを経て教科書に掲載されるまでに、どうしてもある程度の時間がかかるだろうということがあげられます。

 もちろん敗戦直後は戦前の教科書に墨を塗って使っていたわけですから、新しい教材が登場する余地はありません。敗戦から4年経った1949(昭和24)年にようやく最初の検定教科書の使用が開始されますが、この頃はまだ新しい発想で教材選定をするというよりも、従来の教材の中から軍国主義的な要素の薄いものを採録するという傾向が強かったと言えます。新しい憲法ができて「試案」としての学習指導要領が定められ、自由に教材を採録できるようになった教科書編集者が、「こころ」や「羅生門」のような新しい教材を世に送り出すまで、10年ほどかかっているというのは、決して不思議なことではないでしょう。

 しかしむしろ重要なのは、人々の心の中に罪障感が発生するための条件の問題です。つまり、焼け野原の中で食糧難にあえいでいるような苛酷な生活が続いている間は、“生き残りの罪障感”を強く意識することがなかったはずだということです。

 たとえば、これも定番教材の一つですが、原民喜の「夏の花」(『三田文学』1947年6月)の中に、広島市街で被曝しながら生き残った人物が焼け跡をさまよいながら「死んだ方がましさ」とつぶやく場面があります。生きていること自体があまりに苛酷であれば「死んだ方がまし」なのであって、死者に対するうしろめたさが生じる余地はないわけです。最愛の妻を亡くし、広島で被曝し、朝鮮戦争のさなかに鉄道自殺を遂げた原民喜の胸中に何があったのかを正確に知ることはできませんが、おそらく“生き残りの罪障感”(サバイバーズ・ギルト)という問題が横たわっていたことは間違いないでしょう。「夏の花」「廃墟から」「壊滅の序曲」の3部作と「昔の店」などの関連作品を収めた『小説集 夏の花』を書くことで、“平和都市ヒロシマ”ならぬ“軍都廣島”とともに繁栄した実家の栄枯盛衰の中に自らの来歴を見いだした原民喜が、中央線西荻窪駅近くの鉄路に身を横たえて自殺したのは、被曝と敗戦の年から6年後にあたる1951(昭和26)年のことでした。

 “生き残りの罪障感”とは、悲劇との間に距離が生まれ、自らが恵まれた「生」の中にあることを実感できるようになり、生きていることに“うしろめたさ”が感じられるようになってはじめて、大きな問題として浮上してくるものなのでしょう。

 「こころ」や「羅生門」や「舞姫」が最初に採録されたのは1956(昭和31)年のことです。石原慎太郎の「太陽の季節」(『文学界』1955年7月)が芥川賞を受賞し、「もはや戦後ではない」(『経済白書』1956年)と言われ、国民的な規模でアメリカ的な消費社会の中に足を踏み入れ始めた時代だからこそ、“生き残りの罪障感”という問題が人々の心を深いところでとらえはじめていたのではないでしょうか。

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