『戦後の終わり』を終えて

金子 勝

 ベトナム戦争時代の反戦歌に、ボブ・ディランの『時代は変わる』という歌がある。この歌の歌詞に、「今や、のろまだった者がやがて速い者になる。現在はやがて過去になる。そして秩序が急速にはっきりしなくなる。先頭に立つ者がやがて最後尾になる」というくだりがある。私の最も好きな部分だが、時代の転換期には、いつでもそういうことが起きる。

 戦後長らく「保守」対「革新」の対立という構図が続いたが、気づいてみれば、ボブ・ディランが歌うように、いつの間にか両者が入れ替わっている。つまり、「保守」が「革新」に、「革新」が「保守」に変わってしまった。ここに現状の最大のねじれが隠されている。たとえば、昔でいう「革新」的な人々は、しばしば「規制緩和反対」「憲法九条を守れ」といったスローガンを口にするが、よく考えると、それは現状を変えるなというスローガンに他ならない。いつの間にか「革新」が「保守」になっている。これに対して、ブッシュ米大統領とそれに従う小泉政権などの「新自由主義」者たちは、「規制緩和」や「民営化」によって、いまの秩序を壊して変えようとしている。たとえそれが間違っていても、人々の眼には「革新者」として映る。

 これでは、社会が閉塞し、健全性を失っていくのは当然だろう。少なくとも本来は「革新」であるはずの者たちが掲げる「守れ」とか「止めろ」という主張からは、何も新しいものは生まれてこない。彼らは、将来、どういう社会を作っていくのか、そのイメージやビジョンを完全に見失ってしまったのだ。これでは、若い人々の心をとらえることはできない。高齢化とともに自然消滅するしかないだろう。

 二〇〇四年四月から二〇〇六年三月まで、『朝日新聞』の論壇時評の欄を担当させていただいたが、その時にこうした状況を強く実感させられた。毎月送られてくる論壇誌を読んでも、時代の方向を変える記事はなかなか見当たらない。結局、現状を変えようとするのは、「新自由主義」イデオロギーを信奉する「新保守派」。それに反対するのは、「旧革新派」と「旧保守派」という構図に変わりはない。そして「革新派」と「保守派」は、相変わらず護憲か改憲か、愛国心や道徳を認めるか否かという従来の対立図式を再生産している。やや複雑なのは、保守派が反米保守派と親米保守派に分裂したり、よりモダンな「新保守派」はこうした保守派内部の分裂を黙認して積極的にコミットしないという構図もある点だろう。ともあれ、将来社会のビジョンとなる新しい構想はなかなか見つけられなかった。もどかしい感じがした。

 そこで思い切って、論壇時評を変えてみたかった。まず論壇誌に限定せずにインターネットや新書を対象にするなど工夫をした。そして何より、私は、あたかもレフェリーとして超越的立場で振る舞う従来の論評スタイルは止めて、できるだけビビッドな現状を反映させる「主張する論壇」「闘う論壇」にしてみたかった。それが筑摩書房の編集者の眼に留まり、これを本にまとめないかと声をかけていただいた。当初はただそれをまとめて本にする予定だったが、実際には二年間書いた論壇時評の倍以上を書き下ろしてしまった。きっと、自分でも時代認識について書きたかったことがたまっていたのだろう。

 書名は『戦後の終わり』にした。これを見ると、何かきな臭い右翼的な本を想像するかもしれない。たしかに、憲法改正論者がよく「戦後の総決算」という。だが、上に述べたような状況だからこそ、一からやり直さなければいけないという意味を込めて、私はあえて『戦後の終わり』という書名をつけた。

 ドン・キホーテのように見えるかもしれないが、私はいまだに「先頭に立つ者」を「最後尾」に、そして「最後尾」にいる者を「先頭に立つ者」に入れ替えることを夢想している。

(かねこ・まさる 経済学者)

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戦後の終わり

戦後の終わり

金子勝 著

〈戦後という仕組み〉は、もはや崩れ去った。安全・平等な社会は再建できるのか? 日本と世界の難問を論じつくす。朝日新聞論壇時評(04年4月〜06年3月)収録。

定価1,890円(税込)