渾身の人
三木 卓
阿部謹也さんが、突然亡くなられた。突然というのは、ぼくがぼんやりしていたからで、阿部さんはもう十年も前から体の具合がわるかったのである。阿部さんは、一級の身体障害者になった、とご自分のことを書かれていたのだが、それが抽象的で簡潔だったので読んでいながらそれを心にとどめることができなかった。
余計なことはいわない、仕事をするだけだ、というのは、阿部さんの基本的な姿勢だったと思う。かれはそのようにして人生を駆け抜けていった。
いうまでもなくぼくは、阿部さんの単なる読者である。しかし、阿部さんという人のありようは、いつも心にかかっていた。それは同世代としての共感とでもいったらいいだろう。ぼくは阿部さんと同じ一九三五(昭一〇)年生まれである。第二次世界大戦のあとの日本の現実を生きながら大人になっていったわけだが、ぼくは引揚者の母子家庭のこどもだし、阿部さんはお母さんからはなれて、修道院に預けられて育った。阿部さんは必然的に苦学することになったわけだが、かれの人生を見ると、それは猛烈というよりない。
阿部さんは、志をこうと定めると、それを必ず実現するという人間だった。客観的に見ると、阿部さんの経済環境ではとても学問などできないと思うのが、ふつうである。学問などやれば、三十歳ぐらいまではだれかに経済のサポートをしてもらわなければならない。西洋中世史など専攻すれば留学もしなければならないし、文献を入手するのだってタダではない。
高校生のとき上原專祿の講演を聞いてその人格に魅了され、かれのいる大学を受験する、というところまでは、同じような思いを抱いた人もいるだろう。しかし阿部さんは一年浪人しても上原先生のいる一橋大学に入学し、じかに薫陶を受け、生涯この人を師とした。
阿部さんは、高校生のころからフランス語を学び、大学に入ってからは、学内だけでなく外へもドイツ語を学びに行き、かたわらアルバイトをして学生生活を支えた。その果敢な積極性、絶え間ない未知への持続的挑戦の意欲、自己確保・確認の能力には驚くよりない。貧しいから学問なんかできっこない、とぼくは頭から決め込んでいたが、阿部さんは能力さえあれば貧困は学問の障碍にはなりえない、しかも偉大な仕事を成し遂げることもできる、ということをはっきりと証明した。
ぼくはどちらかといえば歴史の本はあまり得意ではなかったが、阿部さんの仕事にはじめて出会ったとき、今まで出会ったことのないような新鮮さを覚え、夢中になって読んだ。そのおもしろさは、生きて考えている生身の歴史家の存在を感じたということだと思う。
阿部さんは、中世史家ハインペルの言葉「近代にとっては自明であるようなことが、すなわち出来事が起こるその世界が中世史家にとっては研究の本来の対象なのだ」という言葉を引いて、「このような考え方を私たちに引きつけて考えると、ヨーロッパの近代史も私たちには自明な世界ではないこと」になると述べているが、今にして思えば、ぼくが阿部さんの仕事に引きつけられたのは、〈自明〉とされていることを、ひとつひとつ自分が納得いくまで検討した果てに文章にしているからだということがわかる。
そういう阿部さんにとって、もちろん日本もまた〈自明〉ではなかった。
優れた学者はみな独学者としての優秀な素質をもっているが、阿部さんもそうだった。
〈自明〉でないものは、すべて未知である。未知を分け入っていくとき、その人の全人的な能力が集中的に発揮される。それまでの人生体験までもが総動員される。阿部さんの仕事の魅力はその表れである。
人生に対して、まじめな人とふまじめな人がいる。どちらがどうとはいえないけれども、阿部さんはまじめな人だった。人生は一回限りだからどういう絵を描ききるか。かれはそれを考え、着実にやってのけた。見事な人生だった。
(みき・たく 作家)