追悼・阿部良雄
弔辞──阿部良雄先生を送る

松浦寿輝

 阿部良雄先生は、少壮気鋭の四十歳の東大助教授として、わたしたちの前に颯爽と現われました。ここでわたしたちというのは、一九七二年に駒場に入学した文科㈵・㈼類18D組の学生のことなのですが、たぶんわたしも含めて多くの者が単に必修科目だからというだけの理由で、何となく選んだ語学にすぎないフランス語のクラスで、最初の時間に颯爽と現われた阿部先生の、きらきら光る抜き身の刃のような鋭利な知性の存在感は、わたしたちをただちに魅了しました。
 阿部先生は、真剣勝負に臨む剣士のような緊張感を漂わせてわたしたちの前に立っていました。先生はつねにきっぱりとした口調で明晰に語られ、アルファベット一つ一つを大事に慈しむような優美な字体で黒板に例文を書かれ、時として、含羞とアイロニーの籠もった口ぶりでその広大な学識の片鱗を示されました。阿部先生は毅然としてそこに立っておられ、その言葉にはいかなる曇りもなく、正確で確信に満ち、フェンシングの名手が裂帛の気合いとともに振り払う剣のように空気を切り裂いて、わたしたちを迷いや逡巡や曖昧な思い込みから解放し、意味の理解と観念の認識の核心へ真っ直ぐに導いていきました。言葉とはこうしたものか、こうしたものでありうるのかという感動がわたしの人生を変えました。
 阿部先生と、先生が開いてくださったフランス語とフランス文学の世界が、当時十八歳の子供でしかなかったわたしの人生を決定しました。教養学科フランス科から仏文の大学院へと進学したわたしが、その後三十数年かけて自分の中に生長させ、いくばくかの花を開かせることに成功したすべての植物の種を最初の裸の土壌に蒔いてくださったのは、阿部先生以外の誰でもありません。
 文法の説明が一通り終わり、文章の講読に入った後に阿部先生が繰り返しおっしゃったのは、後は辞書を引いて理詰めで考え抜けば、君たちはいかなるフランス語の文章も読み解けるのだというお言葉です。驚くべきことに、それは真実でした。しかし、もちろんそのときのわたしたちには、「理詰めで考え抜く」という行為を阿部先生ご自身がどれほどの密度で、どれほどの高度な水準で、またどれほど粘り強い持続力で実践していらっしゃるかということなど、知る由もありませんでした。
 現在は「アドミニストレーション棟」へと改装された旧図書館の四階のゼミ室でのランボーの授業、現在は取り壊されてしまった「一研」と呼ばれる建物の寒い部屋でのラフォルグの授業、また阿部先生の後を追いかけて日仏学院まで聴講しにいったロートレアモンの授業などが、毎回そのつどどれほどスリリングな知的興奮に満ちていたかを、わたしはつい昨日のことのように思い出すことができます。外国語の授業と言えば中学高校の英語の無味乾燥な暗記の訓練しか知らなかったわたしに、阿部先生は、言葉を正確に理解し、それと深く親しく対話を交わすことが、それ自体途方もない愉楽の漲る知的冒険なのだということを、きわめて具体的な体験として教えてくださいました。
 一つ一つの言葉を、単に辞書に載っているその字面の意味が「判る」というだけではなく、その重さ、色合い、手触り、匂いまで含めて精密に、厳密に理解しないかぎり、何を判ったことにもならないのだということ。それはひどく手間のかかる困難な営みではあるが、小さな石を一つ一つ積み上げて塔を築いてゆくようなその労苦は必ず報われるのであり、小さな出っ張りに辛うじて指をかけてじりじりと体を引き上げてゆくような忍耐強い作業によって、人は或るとき、それまでより格段に広い地平を見渡すことができる場所に立っている自分に気づいて驚く瞬間を確実に体験しうるのだということ。そうした基本的な読みの労働をないがしろにして威勢のよい主張を繰り広げる批評だの、口当たりのよい通念をほどほどの水準でまとめるというだけに甘んじている研究だのは軽蔑すべきであること。それが阿部先生の教えでした。
 それは苛酷な教えです。阿部先生はご自身にも他人にも厳しく、ごまかし、怠慢、無分別はいっさい許しませんでした。或る時点から自分の内部の衝迫に従ってフランス文学研究の道から逸れていったわたしなどは、文字通り不肖の弟子にほかならず、きっとわたしの書くものをお読みになって舌打ちしていらっしゃることもしばしばあったに違いありません。それは、その厳しさゆえにわたしにとってはつねに守りきれるわけではなかった教えでしたが、しかし、教えを受けたこと自体は決定的な体験であり、意識と身体に折りに触れ甦ってくるその記憶は、ごまかしや怠慢や無分別が度を越しそうになるたびに、そこからわたしを救ってくれました。
 この世に阿部良雄がおり、阿部良雄の厳密きわまりない思考と文章が存在するということ——それを考えるだけで、或るときには粛然として襟を正す気持ちになることができ、また或るときには疲労困憊と徒労感の中から、もう一度立ち上がって前に足を一歩踏み出してみようという勇気が与えられました。その先生がご逝去された今、わたしは茫然自失のただなかにいて途方に暮れています。しかし、先生の毅然とした佇まい、そして先生が学問に賭けた情熱と責任感は、たとえ先生の肉体が滅びても、わたしの、わたしたちの記憶にいつまでも消えることのないくっきりした刻印を残し、わたしたちに勇気を与えつづけてくれるに違いない、とそう信じたい気持ちです。
 ボードレールの研究と翻訳を中心とする阿部先生の学問的業績に関しては、わたしには大したことを言う資格はありません。わたしの同級生の中からも鈴木啓二のようなボードレールの専門家が出ており、鈴木をはじめ先生が育て上げたフランス文学研究者は、これ以降、先生の衣鉢を継いでさらに広く深く研究を進めつつ、また次の世代へと先生の教えを伝えてゆくに違いありません。ただ、折りにふれ先生の文章を読み返しつつ、わたしがいつもうたれるのは、先生の文体の見事さです。先生の文章は、幾重にも屈曲した重層的な論理を織り上げつつ、重戦車のような重厚感とともに進んでいきます。そこでは、たった一つのセンテンスの内部にも絶えず弁証法的な葛藤と綜合の運動が孕まれ、凝縮された密度の高い思考が、それがまとうべき必然的な言語表現へと蒸留し尽くされて、一語一語もはや揺るがしようのない堅固な文章へと造型されています。しかもそこには、ボードレール的とも形容しうる優雅で辛辣なダンディズムの香りが漂い、節度を失うことを怖れる繊細な含羞が、気品と呼ぶほかないものを文章の全体に染み透らせている。
 世界的水準の学識とともにこうした見事な文体を持つ外国文学者が、明治以来の日本にいったいどれほど出現しているでしょうか。外国文学の研究者として、阿部先生は或る決定的な水準を示されました。後進の者の務めは、また礼儀は、それを乗り越えようと試みることにほかなりませんが、わたしにはそれは絶望的に難しいことのように思われます。
 阿部先生は、厳格で辛辣で容赦ない知性でしたが、たぶんわたしはその一面を強調しすぎたかもしれません。阿部先生は、この柔和な表情のご遺影がよく伝えているように、学生を優しく穏やかに指導し、悪い点を批判するよりも良い点を出来るだけ褒めて伸ばしてくださろうという善意と寛容さを溢れるほどにお持ちの方でした。先生の授業にはいつも心地良い緊張感が漲っていましたが、それは理解と認識に賭けた先生の無私の情熱と、学生にというよりはいつもご自身に向けられていた要求水準の高さから来ているもので、大学にいないわけではない或る種の教師のような、出来ない学生を無意味に叱り飛ばしたり、意地悪く苛めるといった振る舞いとはまったく無縁でした。教室で、ときどき招いてくださったご自宅で、またわたしが人生の難所にさしかかるたびにくださった幾つもの長いお手紙の滋味豊かな文面の中で、先生がお示しくださったご好意の数々を思い、他方でわたしが自分の学生にどれほどの配慮を示しえてきたか、示しえているかを省みるとき、忸怩たる思いにうちのめされないわけにはいきません。わたしには今、先生のなごやかな温顔ばかりが甦ってまいります。
 眠りの中で安らかな死をお迎えになり、長い闘病生活から解放されて、先生は、現世の眠りよりさらにもっと深い眠りの中に静かに入ってゆかれました。わたしが或る小文の中で『悪の華』の詩篇の中では“Recueillement” がいちばん好きだと書いたとき、それを読んでくださった先生からとても嬉しそうな文面のお葉書をいただいたことが思い出されます。

Sois sage, ð ma Douleur, et tiens-toi plus tranquille.
Tu réclamais le Soir; il descend; le voici:

 こうして引用しながら、こんなフランス語の発音の仕方を三十数年も前にわたしに最初に教えてくださったのが、ほかならぬ先生であることに思いを致すとき、改めて言い知れない悲しみが込み上げてまいります。わたしのような来世を信じない無信仰の者も、今は、先生の魂がボードレールがこの詩で謳った安らかな夕べの薄明の中にゆるやかに沈みこみ、

Entends, ma chére, entends la douce Nuit qui marche.

とある、その「甘美な夜の足音」に耳を傾けていらっしゃると想像したい気持ちです。

...Vois se pencher les défuntes années,
Sur les balcons du ciel, en robes surannées;

 とボードレールが謳う、その「もはや死んだ歳月」を透かして、今、記憶の底から、首に掛けたマフラーの、片一方の端をさっと背中の後ろに回し、やや前かがみになってせわしげに駒場のキャンパスを歩いてゆかれる先生の姿が甦ってまいります。
 阿部良雄先生、比類なく高い業績を達成して逝かれた見事な生涯に対する、わたしたちの心底からの尊敬と感謝をどうかお受け取りください。そして、どうかゆっくりとお休みください。

付記 阿部良雄先生はさる一月十七日に逝去された。告別式で読んだ弔辞をここにそのまま採録する。
(まつうら・ひさき 東京大学教授 フランス文学・表象文化論/作家・詩人)

〔ボードレールの詩 Recueillement を、阿部良雄訳で次に掲げます。『ボードレール全詩集』1(ちくま文庫)所収──編集部〕

   沈思

お行儀よくしたまえ、おおわが〈苦痛〉よ、もっと落ちついて。
きみの求めていた〈夕暮〉が、降りてくる。ほらそこにいる。
薄暗い大気が、都市を包みこむ、
ある者には安らぎを、ある者には憂いをもたらしつつ。

死すべき者たちの卑しい大群が、
あの無慈悲な刑吏、〈快楽〉の鞭の下、
奴隷の宴のうちに悔恨を摘みにゆくその間、
わが〈苦痛〉よ、手を私にあずけよ。こちらへおいで、

彼らから遠く。見よ、身まかりし〈歳月〉たちが天の露台の上に、
古ぼけたドレスを着て身を屈めるのを。
微笑む〈後悔〉が、水の底から浮かび出るのを。

瀕死の〈太陽〉が橋弧の下に眠りこむのを、
そして、〈東方〉にたなびく長い屍衣のごとく、
歩みゆく優しい〈夜〉の音を、お聞き、愛しいものよ。

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