存在することの習慣とは

青山 南

 ひとりの人間の人生の記録として読めるように書簡集を編むというやりかたはべつだん珍しいものではない。たいがい大部にはなるが、たとえば芸術家のものだと、芸術家の自己訓練の様子が細かくわかったりもするし、作品からはうかがわれない、いわゆる素顔が見えて、身近にかんじたりもする。
『存在することの習慣』は、アメリカの作家フラナリー・オコナーの、そんな人生の記録としての書簡集である。オコナーの人生は短かった。学生のときに早くも作家としての才能を見出されて注目を集めたはいいが、それからまもなく、いきなり難病に襲われ、歩くのも不自由になって遠くへはほとんど出かけられなくなり、故郷の南部の小さな町で母親と暮らしながら、作品を書きつづけ、三十九歳で亡くなったのである。思うように動けない彼女には手紙はとても大事なコミュニケーションの道具で、顔も知らない熱心な読者とも長年にわたり真摯な手紙のやりとりをしている。
 いかにも悲劇的な人生だ。しかし、オコナーのすごいところは、そういった自分の悲劇に押さえこまれてセンチメンタルになるのを禁じたことである。彼女の作品はどれも残酷で意地悪でコミカルなのだ。あまりの辛辣さに悪意をかんじるひともいるし、膝をたたいて大笑いするひともいる。一九五九年、ある文芸誌から「書くことに興味をもっている学生にどういうアドヴァイスをしますか」とアンケートをもとめられたさい、オコナーはこう答えた。
「自分のことではなく、自分の外側のことに関心を払いなさい。自分のことが書きたいときは、距離をいっぱいとって、他人の目で、他人の厳しさで、自分を評価しなさい」
 要するに、センチメンタルになるな、ということだ。オコナーの短編に「Good Country People(邦題「田舎の善人)」という、なんともグロテスクでコミカルな傑作があって、北部で哲学を学んで南部に帰ってきた女性が登場する。義足をつけている。歩くのが不自由になったオコナーを連想させる。しかし、そんな彼女も、それはもうイヤな女として、世間知らずな女として、じつに容赦なくコミカルに描かれる。
 書簡集『存在することの習慣』が見せてくれるのは、悲劇的な人生のなかでその悲劇性に負かされずにいる精神である。編んだオコナーの後見人と言ってもかまわないような友人は、オコナーには「存在することの習慣」があり、それがそんな精神をつくった、と言う。いや、そんな精神がそんな習慣をつくった、と言う。どっちが先というものではない。ニワトリと卵の関係のようなものだ。
 しかし、「存在することの習慣」、“the habit of being”とはなんなのか。
 この書簡集の存在を早くに日本に紹介したのは大江健三郎で、「人生の習慣」と訳している。どこかの女子大の同窓会かなにかでの講演でとりあげているのだが、いかにも説明しづらそうにこう語る。
「私がとくに語りたいのは、フラナリー・オコナーの根本思想のひとつといっていい、『人生の習慣、habit of being』ということについてなんです。それはちょっとわかりにくい考え方で、しかもいったん理解すれば、若い女性の皆さんの、それこそこれからの人生、生きてあること being のために役に立つと思いますから。」
 でも、明快な説明はできず、読めばわかる、と言う。
「皆さんがこの書簡集を読まれることで、すぐにも具体的にそれを納得されると信じています。そしてフラナリー・オコナーが、こういう『人生の習慣』の人だったのか、ということを理解すると同時に、『人生の習慣、habit of being』ということの、なかなか単純にはつたえがたい意味をあなた方がはっきり自分のものにされるだろうと思うんです。」(『人生の習慣(ハビツト)』)
 読めば、きっとわかる。

(あおやま・みなみ 翻訳家)

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存在することの習慣 ─フラナリー・オコナー書簡集

フラナリー・オコナー 著 , 横山 貞子 編訳

定価4,410円(税込)