母語へのこだわり

中山 元

 ぼくの少年時代は転校につぐ転校の時代だった。小学校だけで六つも通っているくらいである。転校してきた小学生にとって何よりも重要なのは、その土地の言葉に「同化」することだった。完全にその土地の言葉を話せるようになるのは無理だとしても、その土地の言葉を話そうとする意思をみせない場合には、厳しいいじめにあうことを身をもって学んだのだった。もちろんその「恩恵」もある。土地の言葉のわずかな違いに敏感な耳をもつようになったことが、その後の外国語の習得の上で大きな役割をはたしたと思うからだ。ただしぼくの言葉には、いくつもの地方のアクセントが微妙に混じることになった。
 ぼくの場合は話す言葉のアクセントですんだが、異邦の地に亡命したアレントにとっては、言葉は差し迫った重要な問題だった。アレントはフランス語を流暢に話したし、アメリカに移住した数年後には、習得した英語で文章を発表するようになる。アレントが外国語に堪能だったのは間違いない。しかしアレントはなぜか英語を流暢に話すことを拒み続けた。アメリカに亡命してきた他の多くの人々は、その土地の言葉である英語を習得するのに必死であり、ときにはアレントよりも上手になった。その土地の言葉を話せるかどうかは、亡命者にとっては自分の仕事のためにも生活のためにも、決定的な意味をもつからだ(『責任と判断』の「プロローグ」で、こうした状況とこだわりが詳細に語られている)。
 しかしアレントは英語を流暢に話そうとはしなかったし、アレントの英語の文章はごつごつしていて、どこか講演のレジュメのような印象を残している。ときには悪文であり、ときにはそっけない。それでいても語りたいことははっきりと伝わる。そこに欠けているのは、ある種の味わいであり、残り香のようなものである。アレントには、ドイツ文学とドイツ哲学にたいする強い共感があった。クリシェとしての言葉ではなく、自分の真の思いを語ることができるのはドイツ語という母語、二十歳までそだってきた世界の言葉だけであるというのが、アレントの強い思いだった。
 しかしアレントのこだわりはたんにヨーロッパとドイツへの思いだけによるものではないのはたしかである。アレントは「国民として破滅した最初の国民」(ヤスパースとの往復書簡)の一人として、ドイツという国から追われるようにしてアメリカを訪れたものの、ドイツ語よりも英語を上手に話せるようになることを、自分に許せなかったのだと思う。
 ドイツは国家として破滅しただけでなく、ドイツ国民の多くが支持したナチスが、アウシュヴィッツにおいて「起こってはならないこと」を起こしたために、ドイツ人であることは恥辱と感じられたのだった。そして「途方もない恐ろしさ」を忘れたいがために、忌まわしい記憶を「抑圧するかのように」(アレントのインタビュー「そして母語だけが残った」)、ドイツ語を忘れてしまう人々をアレントは目にしてきたのだった。だからドイツ語を忘れずにいるということは、その過去を決して忘れずにいるということ、そしてドイツ生まれのユダヤ人としてのアイデンティティを否定しないことを意味したはずである。
 アレントはドイツという国家が破滅しても、ドイツの知識人がどれほどナチスに肩入れしても(アレントはハイデガーを「潜在的な殺人者」と呼んでいる)、「名声に頼っていた」文学者たちが一夜にして転向しても、ドイツ語という言葉が語られる伝統から離れることは、「根を引き抜かれること」だと感じていたのである。アレントは、自分の置かれた状況に対する違和感を決して失わないようにしていた。その違和感が、アレントの思想のどこか根深いところを規定していたのである。

(なかやま・げん 哲学者/翻訳家)

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責任と判断

ハンナ・アレント 著 , 中山 元 翻訳

定価3,990円(税込)