「超わがまま」な女の「イノセンス」

関川夏央

 湯浅芳子は、おもに昭和戦前期に活躍したロシア文学者である。チェーホフの戯曲の翻訳が有名だったというが、いまは忘れられた。
 かつて志賀直哉の事跡を調べていたとき、私はその名に出会ったことがあった。
 直哉がまだ奈良に住んでいた昭和初年、湯浅芳子が中条(宮本)百合子をともなって訪ねてきた。プロレタリア文学運動に寄付してくれという依頼のための訪問だったが、口ぶりが、余裕のある作家には寄付する義務があるといった押しつけがましい正義論であったので、十三歳上の志賀直哉は叱りつけた。すると湯浅芳子は泣いた。そういうエピソードである。
 が、湯浅芳子が一九二五年(大正十四)から中条百合子と同棲したこと、百合子がその暮らしの中で代表作『伸子』を書いたこと、および、その座右に『暗夜行路』が置かれていたことなどを、私は瀬戸内寂聴『孤高の人』ではじめて知った。
 一九二七年(昭和二)、芳子は渋る百合子をともなってソ連邦に渡った。七カ月間の西欧旅行を含んで都合三年間滞在、百合子の目をマルクス主義に向けた。
 三〇年末に帰国、ふたりは東京目白台の家に住んだ。志賀直哉訪問は翌三一年のことだろう。
 三二年はじめ、百合子は宮本顕治のもとへ走った。そのとき彼女が文字どおり裸足だったのは、警戒していた「夫」芳子が履物を隠してしまったからである。終生、同性愛遍歴を重ねた芳子だが、最後まで百合子を忘れず、晩年に愛したイヌには「リリー」と名づけた。
 湯浅芳子は一八九六年(明治二十九)、京都の豊かな商家に生まれ、京都市内の親戚、繁盛した料理屋の養女となった。十七歳で上京、幸田露伴に入門したが、その古典的教養主義に飽き足らず、やがて十二歳上の田村俊子に親しんでその恋人となった。
 田村俊子は日本最初の女性流行作家である。女優でもあり、パラフィン注入による隆鼻整形手術を受けたことでも知られた人である。男性の恋人を追って俊子がカナダに去ったあと、野上弥生子の家で会ったのが三歳下の中条百合子だった。
 一九一六年(大正五)十七歳で『貧しき人々の群』を発表、天才少女といわれた百合子は一八年にアメリカへ留学、二十歳のとき当地で古代ペルシャ語を研究する十五歳年長の日本人と結婚した。だが当然のごとくうまくいかず、帰国して失意のうちにあったとき、芳子との同性愛が救いとなった。
 根底に男性への恐れと嫌悪があり、そこに女性の自立という主題がからんだ「青踏」的同性愛に対して、近代日本社会は比較的寛容だった。その後、高等女学校という制度によって大衆的に育まれたその空気は、やがてショービジネスとしてのタカラヅカに開花した。平塚らいてう、田村俊子、中条百合子、みなのちに男性と恋愛して結婚したが、湯浅芳子は一九九〇年、九十三歳の死まで「女性ひとすじ」をつらぬいた。その口の悪さ、威丈高な態度も終生かわらなかった。
 晩年、軽井沢の別荘から浜松の老人ホームまでタクシーを走らせ、その料金は東京の元「妻」のもとにとりに行かせるといったわがままは、老耄(ろうもう)のせいというより、彼女の内部に根をおろした芸術至上主義ならぬ「芸術家至上主義」がさせたことなのだろう。
 湯浅芳子が翻訳して日本に紹介したチェーホフ『桜の園』の主人公ラネーフスカヤ夫人は、気がよくてひたすら無力な人だった。湯浅芳子は気がよくもなく無力でもなかった。そのうえ財産を失うどころか、印税を利殖して、周囲を唖然とさせるほどの遺産を残したが、その核心にある種の「イノセンス」があったという点は、ラネーフスカヤ夫人と共通している。
 よくも悪くも湯浅芳子は日本近代が育てた強烈な個性であったそんな自分を、敬遠や絶交の時期をはさみながらも最後まで瀬戸内寂聴に見捨てさせず、またその死後にたしかな手際で「おもしろい女」への長い弔文『孤高の人』を書かせたことこそが湯浅芳子最大の手柄だろう。
 瀬戸内寂聴をしてそうせしめたのは、湯浅芳子の「イノセンス」の力量であった。もって瞑すべし、というべきである。

(せきかわ・なつお 文筆家)

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孤高の人

瀬戸内 寂聴 著

定価609円(税込)