『新寶島』誕生の謎

中野晴行

 手塚治虫の単行本デビュー作『新寶島』が出版されてから、今年はちょうど六〇年に当たる。戦後ストーリーマンガのパイオニア的作品とされ、その後に登場する数多くのマンガ家たちに影響を与え、今日に至る日本マンガ産業の礎を築いたとまで言われているマンガ作品が還暦を迎えるのだ。
 しかし、還暦を祝おうにも、私たちが実際にこの作品に触れる機会は極めて稀である。マンガ史のエポックをつくった作品として名前くらいは知っていても、実物を手に取ったという人は極めて少ないはずだ。図書館や博物館、資料館と雖も『新寶島』を収蔵しているところはあまりない。あってもおいそれと閲覧させてはくれない。古書価格が一五〇万円とも言われる稀覯本である。紛失や汚損のことを考えればそれも当然といえる。
 手塚ファンやマンガ研究者の間では、幻の『新寶島』復刻を願う声がずいぶん昔からあった。しかし、一九六八年に『ジュンマンガ』(文進堂)という単行本形式のマンガ研究誌に、西上ハルオと柳たかをによる縮小トレース版が掲載されたことがあったが、オリジナル通りの完全復刻であったとすれば、それは海賊版だ。
『新寶島』は、まだマンガ家としてデビューしたばかりの手塚治虫と、大阪マンガ界のベテランだった酒井七馬による合作である。酒井が主筆を務めていた雑誌『まんがマン』に手塚が参加したのが縁で、酒井が合作の話を持ちかけたのだ。製作過程について手塚は、酒井が「好きなようにかきおろしてほしい」と草案をおいて行ったので二五〇ページの下描きを見せたが、酒井が六〇ページを削り、さらにキャラクターの一部を描き直した、と言う。一方『まんがマン』の編集発行人で酒井とも親しかったマンガ家の大坂ときをは、酒井がほぼ完全にカット割りまですませていた、と証言している。この食い違いは何を意味するのだろう。
 講談社から刊行された「手塚治虫漫画全集」には『新宝島』という作品が収録されているが、手塚自身が、『新寶島』執筆当時の構想を思い出しながら描き下ろしたもので、オリジナルとは別物である。復刻ではなく、わざわざ描き下ろしという手法をとったあたりに、手塚が『新寶島』という作品に抱いていた複雑な感情を見て取ることができるのではないか。
 酒井七馬という他人の手の入ったオリジナル『新寶島』を手塚マンガとして読まれることにクリエーターとして抵抗感があったことは想像できるが、一から描き直すほどにこだわる問題だろうか。一方で、手塚は戦後の混乱期に四〇万部を超すベストセラーになった、と『新寶島』を誇らしげに語っているのだ。手塚伝説は、ここから始まっていると言ってもいい。
 ここで私が注目するのは、戦後まもなく手塚が描いたとされる習作『オヤヂの宝島』の存在だ。未完のこの作品の冒頭部分には『新寶島』との類似が多いのである。
 ひとつの仮説を立ててみた。『新寶島』の原型は『オヤヂの宝島』であり、これを見せられた酒井がアイディアの一部を生かしながら換骨奪胎して、子ども向きに描き改めたものが、大坂の言う「カット割りまですませたもの」ではなかったのか。
 原案が手塚のものである以上、手塚がこだわるのも無理はない。のちに、『新寶島』の奥付の著者欄に酒井の名前だけがあるのを見て、手塚が怒ったというのも筋が通っている。
 手塚にとって『新宝島』のリメイク即ち自作を取り戻すことだったのではないか。今日では多くのマンガ研究者が、手塚が描き下ろした『新宝島』をテキストに手塚を、戦後マンガ史を語っている。手塚がオリジナルの復刻を拒み、新たに『新宝島』を描きあげたことによって、オリジナル『新寶島』と合作者・酒井七馬の存在は結果として葬り去られたことになる。
 葬られた側は浮かばれない。手塚ももはやこの世の人ではないのだから、出版六〇年の節目に、もう一度オリジナル『新寶島』という歴史的作品に客観的な評価を下しても良いのではないか。私はそう思っている。

(なかの・はるゆき ライター&編集者)

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