テロに倒れた映画監督を、待っていた女優

田村志津枝

 スターというのはさすがに、キラキラとあまねく光芒をふりまき、その痕跡を長くとどめるものらしい。私は李香蘭の活躍を実際には知らない。それにもともと、華やかな人よりも隠れた異才に興味をおぼえるタチだ。それでもスターの輝きに導かれて、気になっていた人のさらに気になるナゾにまでたどり着いてしまった。
 植民地生まれの悲劇というものは、ある。いやこれは、満州という日本の植民地同然の場所で生まれ育った李香蘭のことではない。日本による植民地統治下の台湾に生まれた、劉吶鴎と【りゆうとつおう】いう人のことだ。彼は日本ではほとんど知られていない。台湾でもそれほど有名ではない。ムリもないだろう。彼は三十五歳の若さでとつぜん命を奪われてしまったのだから。
 劉吶鴎は中学のなかばで東京に出て、大学まで日本で学んだ。中学生の身で親元を離れなければならなかったのも、植民地出身者であったればこそなのだが、詳しくはここでは述べない。大学卒業後、彼は上海にわたった。二十代で小説を発表し、その後映画に転じた。映画雑誌を出し、脚本を書き、監督となった。残された資料からは、彼が貪欲に創作の場を追い求めたさまが想像できる。彼の上海行きは、つまるところ自由を願っての遁走だったと言えそうだが、これもここでは詳しくは述べない。一九三〇年代の上海映画界の隆盛期に、仲間たちと映画製作に打ち込んだ数年が、彼の短い人生のなかで最も光り輝いた時間だったかも知れない。
 一九四〇年九月のある日、劉吶鴎は上海の繁華街のレストランで、待ち伏せしていた男に射殺された。このとき彼は、川喜多長政が代表をつとめる日本の国策映画会社・中華電影公司の製作部次長だった。直前まで一緒に食事をしていたのは、日本から来た記録映画『珠江』のロケ隊、石本統吉監督やカメラマンら十三人だ。
 劉吶鴎がなぜ殺されたかは推測がつく。たぶん漢奸(裏切り者)をねらったテロの標的になったのだろう。けれど理屈の上では、彼が親日的な行為ゆえに科【とが】を負うのはおかしい。台湾人は当時は日本国籍だったからだ。むしろ私が気になったのは、彼がなぜ、殺されかねない場に身を置いてしまったか、ということだった。それを探るには長い道のりが必要だった。
 手探りを続けるうちに、一条の光が差し込んだ。七年ほど前に彼の遺族が公開した資料の中から、李香蘭の写真が出てきたのだ。李香蘭はなんと、満州・東京・上海を飛びまわる多忙な日程のなかで、台湾の田舎町・新営にまで足を延ばして劉吶鴎の実家を訪ね、彼の墓参りをしている。いったい李香蘭と劉吶鴎のあいだに、どんなつきあいがあったのだろう。この写真に触発されて、台湾から研究者・ジャーナリスト・劉吶鴎の遺族らが、興味津々で李香蘭を訪れた。ムリもない。台湾では漢奸に向けられる視線は戦後も厳しく、劉吶鴎暗殺事件は長いこと触れることもままならなかったのだ。
 ところが彼らへの李香蘭、つまり山口淑子の答えは衝撃的なものだった。
「彼が暗殺されたそのとき、私は彼と会う約束があり、彼を待っていました」と彼女は言う。
 なるほど劉吶鴎が暗殺される五カ月前の四〇年四月、満映のスター李香蘭は、はじめて上海の土を踏んだ。長谷川一夫と共演した『支那の夜』のロケのためだ。反日感情の強い上海で、ロケ隊は日本の軍隊に守られ、中華電影公司に助けられて撮影を終えた。
 しかし山口淑子は、そんな重要な出来事を、なぜもっと早く話さなかったのだろう。隠さなければならないことでも、あったのだろうか。
 それにしても、と私は考えずにはいられない。世に広く光を振りまくスターは、その身の内に汲めども尽きせぬ光の泉を持っているのだろうか。それとも光を振りまいたぶん、内には深い闇がよどむのだろうか。

(たむら・しづえ ノンフィクション作家)

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李香蘭の恋人 ─キネマと戦争

田村 志津枝 著

定価2,310円(税込)