花は桜木、男は任侠

氏家幹人

 新渡戸稲造『武士道』(矢内原忠雄訳)の第一五章「武士道の感化」をひらいてみよう。「武士は全民族の善き理想となった」「知的ならびに道徳的日本は直接間接に武士道の所産であった」。著者はさらに「武士道は最初は選良【エリート】の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰【かつごう】および霊感となった」とも述べている。明治も三〇年代の今や武士階級は存在しないが、武士道精神は日本国民の間に浸透し、その精神的お手本として生き続けているというのである。
 武士道万歳。ところで新渡戸は、武士道が賛美されてきた証拠のひとつとして、「花は桜木、人は武士」と歌われてきた事実を挙げている。日本では、花は桜、人は武士が最高と見なされてきたというのだ。
 はたしてそうか。桜はともかく、まぎれもなく武士の時代であった江戸時代においてすら、「人は武士」と単純に言い切れたかどうか、私はいささか懐疑的だ。たしかに上納金によって富裕な百姓が士分になった例は多いし、持参金を積んで幕臣の家に養子入りして御家人はおろか旗本になった例もあった。金目当てに武士の身分が提供された背景に、多額の金を払ってでも武士になりたいという風潮があった事実は疑うべくもない。
 にもかかわらず私が懐疑的なのは、一八世紀の江戸では、一方で「人は武士、なぜ傾城にいやがられ」「人は武士、なぜ花魁にもてぬこと」といった句が流布していたからだ。この点については、儒者の井上金峨(一七三二―八四)もお嘆きだった(『病間長語』)。
 曰く。「近年の若武士は、他行などするにも二本棒はやぼらしきなとヽて、出入の町人の所へあづけるもあり、又は一刀帯るもあり、かごを出たる鳥の心に成て浄瑠璃小廠【コヤ】にて、町人と見らるヽを自喜するもの多し、さりとは浅間【あさま】しきことなり」―― 。近頃の青年武士は、大小の刀を差すのは野暮くさいと、一本(大の方だろう)ないし二本とも出入りの町人の所に預けて浄瑠璃芝居などに出かけ、町人と見間違えられて喜んでいる始末。理由は、武士では遊女にもてないから。そんな現実を詠んだ句が、「人は武士、なぜ傾城にいやがられ」(ボクちゃんは武士なのにどうしてもてないの?)なのだという。若い武士たちは、野暮な武家風を嫌って「町人めきたがる」、町人のふりをしたがっているというのである。
 町人に憧れる武士たち? 女にもてようとして“武士の魂”を置いて行くくらいだから、武芸の力だってお寒いかぎりだ。金峨は言う。天下泰平が続いて老人さえ実戦経験がない当世では、武士といっても筋骨軟弱で、武術も格好ばかり。「ぬぐひ板の上にて、なまめかしきかけ声かけて打合は、さながら素肌の勝負と思はる」。気合いの入らない声で剣術の稽古をする姿は、まるで「素肌の勝負」。防具を着けず恐る恐る打ち合うチャンバラごっこのようだという。
 戦士であるはずの武士が実際には戦士として役立たずだという認識は、江戸後期にはほとんどの人々が共有していた。たとえば幕末の儒者山田三川の『想古録』にも、松本某が「士の禄を食むもの概ね飽暖安逸に流れて」いざという時には用に立たないと慨嘆したと書かれている。興味深いのは「嗚呼【ああ】双刀の士、竟【つい】に息杖一本の雲助に及ばざる乎」の一文。大小を差した武士が、杖一本を手にした無頼の雲助に敵わない。残念ながらそれが現実だというのである。
 戦うことが使命(存在意義)でありながら戦えなくなった武士と、それをせせら笑うように台頭してきた無頼・遊侠と呼ばれる武闘派の男たち。身分でも支配被支配の関係でもない「男」(戦士)の土俵で繰り広げられた両者の競合と共存が、江戸から今日に至るわが国の男社会に及ぼした影響を考察しようと試みたのが、『サムライとヤクザ』である。
 史料の中から、「人は武士? まあいいさ。でも男は任侠だぜ」という声が聞こえてきた。

(うじいえ・みきと 歴史学者)

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サムライとヤクザ ─「男」の来た道

氏家 幹人 著

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