節目の時間に見えてくるもの

蜂飼 耳

 中島京子の『冠・婚・葬・祭』は、生きている時間のなかに浮かんでは消えていく特別な出来事を切り取り、描き出す。タイトルが表す通り、四つのストーリーを収める小説集。冠婚葬祭、人生の節目、ハレの時間帯。昔から受け継がれてきた習俗と感覚は、この本のなかで、現代のものとしてのかたちを与えられて、登場人物たちをゆるやかに繋いでいく。
 冠は、成人式。地方新聞の新人記者が、ある町の成人式を取材する。当初に企画されていた新成人による「ストリート・パフォーマンス大会」は、参加希望者が少なすぎて別の催し物に変更される。記者である裕也は、事実確認をせず、「大道芸」という語を入れて記事を書く。その結果、週刊誌やネット上の掲示板に非難の言葉が並べられる。新聞社の信用にかかわるとして、裕也は辞表を提出することに。だが、裕也は確かに、見たのだ。成人式の会場の外で、大道芸を披露する若者を。あれはいったいなんだったのか。物語の後半、その謎が解けていく。自分の道を手探りする、すがすがしい風が通り過ぎる作品。
 婚は、結婚。「この方と、この方」というタイトルに首を傾げて読み始めると、いわゆる「お見合いおばさん」をめぐる小説なのだった。もう年だから人のお世話をすることからは引退、と思っていたマサ枝のところへ、写真が持ちこまれる。一枚は女性。すぐにでも結婚したい人。もう一枚は男性。自分からは動こうとしないので、妹が気を回して行動に移す。「マサ枝さんなら、いい方を見つけてくださるって、信じています」と、妹。「信じられても困るわ。わたしは、魔法使いのおばあさんじゃないもの」。そう応じながらも引き受けてしまうマサ枝。人それぞれの性格や、過去の体験に基づく考え方の違い。期待と妥協。喧嘩と仲直り。偶然のように見える出会いが、お見合いおばさんの掌を通り過ぎ、偶然ではないものへと変わっていく。
 そして葬は、葬儀。ある日、直之は、上司から奇妙な社命を受ける。「二日後の朝、老女をひとり、葬式に連れて行くこと」。亡くなった川田作蔵という人物とこの老女にどんな関係があるというのか。「川田作蔵さんは、ご親戚ですか? それともお友だちですか?」直之は、面と向かって訊いてみる。すると、老女はきっぱり答える。「知らないわ」。知らないふりをしているのではない。寺へ向かう車のなかでは、いきなり「あなた、ナポレオンがどうして赤い革帯締めてるか、知ってらっしゃる?」と質問。告別式の前には「お経が始まるの、やだな」と声を発する。故人との関係は、なかなか見えてこない。だから、終わり近くでうっすらと示されるとき、どきりとする。切れているのか、それとも、繋がっているのか、わからない縁。それは遺された人たちの目からも遠ざかっていくのだ。
 祭は、本書ではお盆。舞台は、群馬の田舎にある古い家。それぞれ結婚し離れて暮らす三姉妹は、亡き母の実家であるその家を手放し、取り壊すことに決める。子どものころ、夏休みを過ごした思い出の家だ。最後にもう一度だけ、昔のようなお盆をしよう。姉妹はそれぞれの日常を離れて、集まる。
 その家に残された荷物を片づけていると、いろいろな物が出てくる。着物、手紙、紋付袴。時代も人物も背景もわからない変色した写真。アルバムをひろげていると、近所の人らしき女性が縁側から上がりこんできて写真を懐かしがる。「一枚一枚、丁寧にページをめくっているところを見ると、皐月たちには誰が誰やらわからない人物たちが、彼女の中では意味を持って息をしはじめるようでもあった」。ひたひたと満ちてくる、いなくなった人々の気配。「お盆に死者が帰ってくるというのは、超常現象でもなにかの比喩でもなくて、まるで同じ動作で繰り返される伝統行事の所作の中に、いまはもう亡くなってしまった人々の面影が立ち現れる、そのことを言うのではないだろうかとさえ思えてくるのだった」という一行が響く。
 人と人の関わりを見つめては通り過ぎていく視線が、それぞれの短編を貫く。冠婚葬祭、という節目をたどって成長し、人は老いていく。それらは日常から離れた特別な行事でありながら、同時に、ふたたび日常へ返っていくための時間でもあるのだ。四つめの、祭を描く「最後のお盆」がとくに心に残る。見えるものを通して、その背景にひろがる見えないものを描く点に引かれる。流れてゆく生活を、近くから眺め、遠くからも眺める、そんな小説集だ。

(はちかい・みみ 詩人)

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冠・婚・葬・祭

中島 京子 著

定価1,680円(税込)