半藤一利さんの歴史を見る眼

原 武史

 一九三〇(昭和五)年生まれの半藤一利さんと、六二(昭和三十七)年の私では、年齢にして三十年以上の開きがある。私の父親が三一年生まれだから、ちょうど親子ほどの世代差といえようか。
 私はアカデミズムに属している。この世界では、私自身を含めて、他人が書いたものをほめるよりは、むしろ批判するほうに熱を上げることが多い。いわく、あの史料を読んでいない、史料の読みが甘い、史料を踏まえずに恣意的な憶測をしている、等々である。時にはそれがエスカレートして、激しいののしり合いに発展することもある。
 それに比べると、半藤さんは超然としている。学者先生は私のような素人の書いたものなど、ハナからまともな相手と見なさないでしょうが、一向にかまいませんよ、という顔をされているように見える。史料探しにばかり血道を上げる学者に対しては、文字に残されているものなんて、歴史全体から見れば、まるで大河の一滴みたいなものですよ、と静かに語りかけられているような趣がある。
 痛快である。この悠揚迫らぬ態度こそ、半藤さんの最大の魅力といっていい。
 三〇年生まれの半藤さんにとって、昭和初期という時代はまさに幼少期と重なっている。私は今年、『滝山コミューン一九七四』(講談社)という本を出したが、これは主に、私の十一歳から十二歳にかけての記憶をもとに、七〇年代前半という時代を描こうとしたものである。同じ年齢を半藤さんに当てはめれば、四一年から四二年、つまりちょうど太平洋戦争が勃発したころになる。
 そう考えると、半藤さんが生き証人として、この時代の記憶をあとの世代にきちんと語り継がねばならないという強い責任を感じておられるのがよくわかる。
 七月にちくま文庫の一冊として刊行された『昭和史残日録 一九二六−四五』は、四五年までの昭和史のなかから、特に記憶されるべき出来事をピックアップし、それらをすべて一頁で解説したものである。とにかく史料を並べて長く書くことを尊ぶアカデミズムとは対照的に、一頁という厳しい制約のなかで、一つひとつの出来事が、半藤さんという名探偵のレンズを通して、見事に浮かび上がってくる。
 そして、さりげなく挿入されるユーモアや皮肉の数々。読みながら、私は幾度となく声を上げて笑い、励まされた。あと三十年生きながらえたとして、私もこうした文章が書けるようになるだろうかと自問せずにはいられなかった。
 もちろん半藤さんも、決して史料をおろそかにしているわけではない。それどころか、並の学者以上に史料を徹底して読み込みながら、さらには関係者への聞き取りを重ねながら、それでも残る歴史の空白に対して、時に学者ですら思いもつかぬ解釈をされることがある。
 例えば『聖断』(PHP文庫、二〇〇六年)で、半藤さんは四五年六月十四日の昭和天皇と香淳皇后の大宮御所訪問、すなわち皇太后(貞明皇后)との面会に注目され、大宮御所から宮城(皇居)に帰るや二日間にわたって寝込んだのを機に、天皇は和平をはっきりと決断したと解釈されている。私は近々、『昭和天皇』(岩波新書)という本を刊行する予定だが、半藤さんのこの解釈から大きな示唆を受けたことを告白しておきたい。
 官学と私学の対立、政治学と日本史学の対立など、アカデミズムにはびこる陰湿な空気に嫌気がさしたとき、私は半藤さんの本に救いを求める。そこには、歴史を記述する上で忘れてはならない根本と、歴史を見つめてきた先達ならではの広やかな眼差しがあるからだ。
 この十一月には、『昭和史残日録 戦後篇』が再びちくま文庫から刊行される。四五年から七五年までの戦後史を名探偵がどう斬るか。いまから期待している。

(はら・たけし 明治学院大学教授)

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