清張さんの骨法

半藤一利

 昭和二十七年下半期の芥川賞を清張さんが受賞したとき、選考委員であった坂口安吾さんが選評にこう書いている。
「文章甚だ老練、また正確で、静かでもある。一見平板の如くでありながら造型力逞しく底に奔放達意の自在さを秘めた文章力であって、(略)この文章は実に殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり、その時はまたこれと趣きが変りながらも同じように達意巧者に行き届いた仕上げのできる作者である」
 これは清張さんを推理小説も書ける作家だと見抜いた評言と、一般に理解されている。わたくしは直後の二十八年春、桐生の安吾邸で安吾さんからじかに「あの新人はあの正確で静かな文章で、日本になかった欧米流の骨太なノンフィクションの書ける逸材だよ」という絶賛の言葉を聞いている。
 けれども清張さんは小説を書くのが楽しくて忙しくて、自分に特異の、並外れた才能のあることに、少なくともこの六年後の昭和三十四年、「文藝春秋」五月号〜七月号に「小説帝銀事件」を連載するまでは気づかなかったのではなかろうか。
 小説と銘うったこの作品で、昭和二十三年に起こった不可解な事件の背後にGHQ(連合軍総司令部)の影のあることを、清張さんは明らかにした。すなわち、旧日本陸軍の七三一部隊や第九技術研究所関係のメンバーの何人かが、GHQの公衆衛生課(PHW)に吸収されていた事実をつきとめ、しかもかれらは細菌や毒物に関するエキスパートばかり。であるから、細菌や毒物などにまったく無知な画家の平沢貞通なんかではなく、むしろGHQに雇われた旧陸軍グループが怪しいとみるべきではないか。清張さんはこのことを、綿密に調べあげた資料にもとづいて検証し、足らないところ、欠けた部分には目が醒めるような推理を展開させ、真犯人像を描いてみせたのである。そして多くの読者の支持をえることができた。
 しかし、資料の客観性について疑義を呈する向きもあり、清張さん自身も、小説の形をとったことにインパクトの弱さ、何となく飽きたらなさを感じざるをえないところもあった。
「小説で書くと、そこには多少のフィクションを入れなければならない。しかし、それでは、読者は、実際のデータとフィクションとの区別がつかなくなってしまう。つまり、なまじっかフィクションを入れることによって客観的な事実が混同され、真実が弱められるのである。それよりも、調べた材料をそのままナマに並べ、この資料の上に立って私の考え方を述べたほうが小説などの形式よりもはるかに読者に直接的な印象を与えると思った」(「なぜ『日本の黒い霧』を書いたか」)
 小説に書こうと思い取材を重ねているうちに、事実として世に問わなければならぬと、そう感じられるいくつもの事件に直面する。それを小説にしてしまうと、せっかくの事実が死んでしまう。そこから当然のこと、意欲的な清張さんにははっきりとノンフィクションというジャンルが意識されてくる。社会的推理から社会的事実告発への飛躍ということである。
 こうして、翌三十五年一月号より十二月号まで一年間、「文藝春秋」に日本のノンフィクションの先駆的な作品「日本の黒い霧」が連載されることとなり、読者にアッと言わせ、これが爆発的な人気をよびこんだ。
 それまでのノンフィクションといえば、インサイド・ストーリーというか、暴露物という印象のみが強かった。たいして、清張さんのノンフィクションは、複雑に入り組んだ現代史を語るにふさわしい条件を、十二分に備えたものとして読者に迎えられた。その条件とは、新事実を徹底的に追求し、執拗に取材して関係者の肉声を集め確かめ、どうしても不可解なところには理知的な推理を加え、それを平易に語る真面目な営みということなのである。もう一つ、清張さんの場合、とくにつけ加えれば、常に弱い者の味方であることになろう。
 それは安吾さんが予言したとおりの、老練で、正確で、静かで、造型力逞しい文章によってはじめてなされるものである。いまのノンフィクション文学の鼻祖は、まさしく松本清張その人である、といっていいのである。
(はんどう・かずとし 作家)

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