「複数のアイデンティティ」を生きるということ

李 建志

「お兄さんの名前はなんていうの?」
「李建志(りけんじ)です」
「え、なんだって?」
「り けんじ、朝鮮人(チョーシンチュ)です」
 お爺さんは急に私から眼を逸らした。心なしか、お爺さんは不快な表情を浮かべていたかに見えた。あの話は本当だったんだ、と私は思った。
 ここは大阪市大正区、沖縄出身者の定住地だ。大阪には鶴橋や猪飼野(いかいの)といった在日朝鮮人の集まり住む地があり、長い間閉鎖的な空間として囲い込まれていたが、いまや観光名所にまで発展している。それに対し沖縄の人たちの街は、その知名度自体が低い。
 幼いころのこと、父は私に、沖縄のひとは朝鮮人を嫌ってる、と教えた。その言葉からは、単なる「沖縄嫌い」とは違うなにかを感じた。朝鮮と沖縄の間に刻まれた「歴史」には、不穏なものがあったようだ。
 その後、私は沖縄・朝鮮間の問題に触れることなく暮らして来た。ところが昨年のこと、大阪人権博物館(リバティおおさか)の沖縄についての展示を見て、父の言葉を思い出してしまった。戦前、大阪に出稼ぎに来ていた下層労働者は朝鮮系と沖縄系が多く、互いに反目しあっていたという。大阪に住む沖縄のひとの証言で、朝鮮人が沖縄のひとを差別しており、沖縄のひとも「朝鮮の奴(チョーシナー)!」という言葉を使っていたという事実を知らされたからだ。
 戦前の大日本帝国の日本「本土」を中心とした価値観からいえば、朝鮮と沖縄はともに下層に位置していた。仕事の取りあいもあっただろうし、不満のはけ口としてお互いを嫌いあっていたのかもしれない。やりきれない思いを胸に、博物館からの帰り道、私は大正区の沖縄街の民謡酒場に足を運び、そして冒頭に紹介したお爺さんに出会った。
 私は沖縄のひとにとっては「ヤマトゥ」なのだと思う。東京に生まれ育ち、沖縄のことを知らずに過ごしてきてしまったことに、これまで反省はなかった。それは日本「本土」のひとが沖縄に対するときの立ち位置と同じではないか。
 確かに在日朝鮮人は日本のマイノリティだろう。だが、在日朝鮮人が沖縄のひとに「弱者同士」として親近感を持ちたがるのは甘えではないのか。弱者同士にも微妙な対立や反目もあったはずである。だからそれを知り、引き受ける勇気が、いまの日本に生きている私たちには求められていると思う。もちろん、マジョリティに対する批判は大前提とした上で、である。
 こういうと、あなたは「それは差別される側、少数者(マイノリテイ)の問題だ」と思うかもしれない。しかし、人権の問題は本当に「普通の日本人(マジョリテイ)」には関係ないのであろうか。例えばあなた(の肉親)が恋に落ちるひとが、「普通の日本人」ではなく、外国籍者かもしれないし、相手のご両親のどちらかが外国人かもしれない。このようなことはいまどき珍しくもなんともないだろう。そんなとき、あなたは自分(の肉親)の好きになったひとに「我慢」と「選択」を強要できるだろうか。
 いままで、例えば在日朝鮮人については、日本に同化するか、韓国朝鮮人として生きていくかという二者択一が当然のように要求されてきた。だが、なぜマイノリティばかりが変化・変更しなければならないのだろうか。むしろマジョリティが変化することで社会は開かれていくのではないか。そのためには、「民族」とか「国籍」とかではない、もっと自由なかたちで「複数のアイデンティティ」を抱えて生きる方法があるはずではないか。
 腰が立たなかったはずのお爺さんの見事なカチャーシー(三線(サンシン)の音にあわせた踊り)にあわせて私も汗をかくと、お爺さんは私の目を見ながら、笑顔で握手をしてくれた。この時、沖縄のことをもっと知ろうと思った。それこそ、肉親に対するような真摯(しんし)さで。こういう経験の積み重ねが社会をかえるのだと、私は信じる。
(り・けんじ 比較文化・比較文学)

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