ちくま学芸文庫「日本の百年」完結記念 鶴見俊輔インタビュー

近代をつくった幕末明治の日本人

鶴見俊輔(評論家 /「日本の百年」編集委員)、中島岳志(北海道大学准教授)

世界史のなかで維新の意味を問う
中島 最後の巻に「あらゆる人にとって、何かの仕方でそれをうけとることをしいるような、それぞれの時代の大事件をえらんで、それらの大きな事件を、それらをつくりそしてうけとめた同時代の小さな人々の心をとおしてえがくことをこころみた」とありますね。それと、百歳の人何人かのインタビューが出てきます。そして「ここにはりあわされた資料のとなりに、読者が、自分のその時にもった同時代体験をさらにつけくわえてはりあわせることによって、ここにあるそれぞれの部分が、より限定された意味を持つようになる。同時代の歴史が当然にそうであるように、この本は余白のある歴史である」と書かれています。
 力のある者の、上からの歴史とは違う歴史を、そうした市井の人たちの視点から書こうとされている。そのスタートが漂流民で、百歳の方の話で終わるというのは、印象深かったですね。
 これを書かれて四十年近く経ち、戦後も六三年です。僕などは一九七五年生まれで、安保はもちろん全共闘すら知らないので、僕たちから見た百年というのはまた違うんだろうなと思いますが、いかがですか、いまの時点から百年を振り返ると。
鶴見 私が四つ、五つの頃は、維新前に生まれた人が生きていたんですよ。子供のとき、じいさんの後藤新平のうちにいたんだけれど、彼も維新前の生まれです。
 彼は、子供を集めて車座にして、しゃべらせるのが好きだった。たまに向こうがしゃべる。「俺は牢屋に入っていたんだぞ」と言うから、「ああ、そういう偉いヤツなのか」と。子供の感覚だとそうでしょう。だから、十九歳で牢屋に入ったときは、俺は同格になったと思ってうれしかったな(笑)。
 長生きしてくると、歴史が縮んでいく感覚があるね。自分の身の丈も、確かに五センチほど縮んでいるけれども、自分の内部の歴史も縮んでいるね。老人がただの老人に見えなくなってくるんだよ。
 私が生まれた年の百年前は一八二二年だから、黒船以前です。そういう射程では、万次郎などもやっぱり同時代に生きた老人に思える。だから、万次郎と小田実の比較というのが自然に出てくるわけです。
 比較でいえば、親父の鶴見祐輔とじいさんの後藤新平を比べて、やっぱり大きさが違うという感じはあるね。じいさんのほうが高位に上って勲章をたくさん貰ったからの評価じゃない。人間として大きいね。
 例えば、大杉栄が金の無心にやってくる。じいさんは大杉が好きなんだよ。「君のように才能のある人間が、どうして金に困るのかね」と言うわけ。そうすると大杉が、「それは、あなた方が弾圧するからです」と。
 後藤新平はああいう人が好きだった。宮本百合子にも快く会って、「自分の孫もそういう活動をしています」と。孫とは左翼演劇活動をしていた佐野碩(せき)で、非常に愛している。一方で、私腹を肥やしているヤツがとにかく嫌い。そういう人だった。
 人間の大きさからいって、幕末というのは大したものだ。彼らは、みんな自分の弱さを見つめているんだよ。例えば陸奥宗光。家老だった親父が失脚して、彼は龍馬の弟子になって海援隊に入り、そのあと東京で洋学の勉強をしていた。ところが授業が終わるとパッといなくなって、浅草に行く。友達が「どうして浅草に行くのだ」と聞くと、「浅草には雑踏がある。雑踏に逆らう練習をしているのだ。自分は見てのとおり非力だ。ケンカすれば必ず負けるから、逃げ足の練習をしている。どうだ、俺とケンカしてみんか? 逃げ足は速いぞ」と。
 そういう心の置きどころなんだね。高杉も坂本龍馬も、自分の弱さをよく考えている。それが幕末から明治二七年までです。
 なぜ明治二七年かというと、生方敏郎の『明治大正見聞史』、あれに出ている。生方の出身地の沼田で子供が遊ぶときに、戦争ごっこで、官軍になる子がいない。みんな西郷軍になる。西郷軍が勝つと思っているから。ところが明治二八年に日清戦争で日本が勝つと、子供が日本軍になるようになって、日露戦争で完全にひっくり返る。それまでは中央政府は微弱なものだと思われていたのが、意識が変わったんです。
 幕末の、本当の意味でのエリートだった何人か、これは世界史のなかで見ても、相当な人物だと思うね。薩摩、長州、土佐なんかにはそういう人がいた。薩英戦争だって実質的に薩摩が勝っていたよね。長英戦争は長州が敗けたけど、イギリス海軍に相手を見る器量があって、よく戦った長州と薩摩とを信頼した。そして、金銭的にも武力的にも助けて、明治維新を後押しした。
 そういうことが、日露戦争を境に、忘れられていったというのが問題ですね。
 日露戦争をやるかどうかの会議のとき、児玉源太郎は「やりましょう。だけど一つ約束してください。私がここでやめてくださいと言ったら、どんなに不利な条件でも呑んでください」と言いました。あの頃非常に力があった重臣の山県有朋や伊藤博文、総理大臣の桂太郎、外務大臣の小村寿太郎の前でちゃんと言った。それで実際に自分が参謀長になって、いざ戦況が膠着状態に入ると「今です」と講和を進言する。
 講和交渉に出ていったのは小村です。相手は日露戦争に反対したヴィッテ、これが頭いいんだよ。非常にまずい状況だけれど、小村は承知の上で不利な条件で講和を結んできた。児玉の提言は活きたわけでしょう。国民は「もっとやれ」と言って、日比谷焼討ち事件なんかが起きますが。
 児玉とか小村とか、その辺りまでの人たちは、スピノザが『エチカ』で言っている「つくる自然」(natura naturans)なの。幕末から日露戦争終結の明治三八年まで、だいたい五十年続いた。そのあとは、「つくられた自然」(natura naturata)になっちゃう。つまり、我々が日本国家をつくるんだという意識をもっていた人たちから、日本国家につくられた人になった。
 日本人の力は、明治維新の前に遡って捉えないと見えないと思います。ところが、明治が、明治以前と明治とを切ってしまった。
 明治時代、大学に呼んだ優れた外国人に対して、「明治以前のことはお話になりません」とか「野蛮な時代でした」とか言って、前の時代を切り捨ててしまった。
 そんなことを言って済ませる問題ではないんですよ。日本列島に住む人たちは、世界史のなかでも相当なことをやってきたし、相当な文化の力があった。法然にしても親鸞にしても、一遍にしても、道元にしても、世界史のなかに当然出てくる人ですよ。
 日本がきちんと入ってくる世界史は、書かれていないと思うね。本当に国際的な、明治維新の歴史、世界史の一部、アジア史の一部としての明治維新が。だからこそ、それを捉まえられれば、明治維新がどれほどアジアにとって重大なものだったかも見えてくるでしょう。その意義をつぶしたのが大正・昭和の日本で、アメリカに負けるより前につぶれていたんです。

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