001

内田百間 うちだ・ひゃっけん

1889 - 1971

岡山市の生まれ。本名は栄造。ペンネームは郷里の百_川にちなむ。旧制六高在学中は俳句に親しむ。東大ドイツ文学科卒。陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学等でドイツ語を教える。教師をやめたのち作家活動に入り、特異な幻想をつづった短編集「冥途」「旅順入城式」を発表。飄逸な「百鬼園随筆」によってひろく世に出た。借金術の大家で、鉄道好きとしても知られていた。

002

芥川龍之介 あくたがわ・りゅうのすけ

1892 - 1927

東京の下町生まれ。幼いころより和漢の書に親しみ、怪異を好んだ。一高、東大英文科にすすむ。在学中に書いた「鼻」が夏目漱石の激賞を受ける。しばらく教員生活をしたのちに創作に専念、第一創作集「羅生門」によって文壇の地位を確立。以後、王朝物、キリシタン物、開化物など、たえず新機軸につとめ、知的で清新な作風をつくりあげた。睡眠薬により自殺。

003

宮沢賢治 みやざわ・けんじ

1896 - 1933

岩手県花巻市の生まれ。生家は古着・質商。盛岡の高等農林学校在学中に詩や散文の習作をはじめる。日蓮宗に深く帰依し、一時上京して布教生活を送る。帰郷後は農学校で教えつつ多くの詩や童話を書く。やがて農学校を退職、「羅須地人協会」をつくり、農民への献身の生活に入った。生前はほとんど無名のままに死去。病床のなかで手帳に綴ったのが「雨ニモマケズ」の詩。

004

尾崎 翠 おざき・みどり

1896 - 1971

鳥取の生まれ。女学校時代に「文章世界」へ投稿を始める。故郷での代用教員ののち上京、日本女子大に入学、「無風帯から」を発表。女子大中退後、文学に専念、「アップルパイの午後」「第七官界彷徨」で一部の注目をあびる。昭和七年の帰郷後、音信を絶つ。戦後一時、行商をしていた。ついで老人ホーム。「第七官界彷徨」があらためて発見されたのちも、面会を固辞、ひっそりと死去。

005

幸田 文 こうだ・あや

1904 - 1990

東京向島の生まれ。父露伴より家事、身辺にわたりきびしい躾をうける。二十四歳のとき嫁いだが十年後に離婚。実家にもどり晩年の父をみる。その死を述べた「終焉」「葬送の記」で文壇に登場。つづいて「こんなこと」「みそっかす」。ほかに長篇「流れる」「勲章」「笛」など。ジャーナリズムと隔たりをとり、みずからの足跡を刻むようにして文筆をつづけた。

006

寺山修司 てらやま・しゅうじ

1935 - 1983

青森県弘前市の生まれ。早くより詩や短歌を発表。十八歳のとき短歌研究新人賞を受賞して脚光をあびる。早大在学中にネフローゼを発病し四年間の療養生活を送る。その後、劇団「天井桟敷」結成、劇作家、演出家として活動のかたわら、小説、批評、詩、歌謡、映画、競馬評論などさまざまな分野で才気を発揮した。旺盛な仕事のさなかに急死。

007

江戸川乱歩 えどがわ・らんぽ

1894 - 1965

本名平井太郎。三重県名張の生まれ。早稲田の学生時代に英米の推理小説を耽読。卒業後、会社員、古本屋、新聞記者など職業を転々としたのち、大正十二年(一九二三)、雑誌「新青年」に「二銭銅貨」を発表。筆名はエドガー・アラン・ポーにちなむ。ほかに「心理試験」「屋根裏の散歩者」「押絵と旅する男」、内外の推理小説を論じた「幻影城」など。

008

太宰 治 だざい・おさむ

1909 - 1948

青森県北津軽郡の生まれ。本名津島修治。中学の頃より同人誌に習作を発表。旧制弘前高校から東大仏文科に進む。この間、左翼活動に傾倒。「魚服記」「思い出」でデビュー。戦中から戦後にかけて「ロマネスク」「富嶽百景」「お伽草紙」「ヴィヨンの妻」など、次々と秀作を発表。流行作家としての栄光のさなかに自殺。

009

坂口安吾 さかぐち・あんご

1906 - 1955

新潟市の生まれ。本名は炳五。中学を放校されて上京、東洋大でインド哲学、アテネ・フランセでフランス文学を学ぶ。「木枯の酒倉から」「風博士」によって、一部の注目をあびる。戦争中は「日本文化私観」「青春論」などの卓抜なエッセイを書きつづけ、戦後、「白痴」「堕落論」で一挙に世に出た。独特の発想と視点をもった文明批評や、「不連続殺人事件」などの探偵小説もある。

0010

三島由紀夫 みしま・ゆきお

1925 - 1970

本名平岡公威。東京・四谷生まれ。学習院中等科在学中、<三島由紀夫>のペンネームで「花ざかりの森」を書き、早熟の才をうたわれる。東大法科を経て大蔵省に入るが、まもなく退職。「仮面の告白」によって文壇の地位を確立。以後、「愛の渇き」「金閣寺」「潮騒」「憂国」など、次々と話題作を発表、たえずジャーナリズムの渦中にあった。

011

泉 鏡花

1873 - 1939

本名鏡太郎。別名畠芋之助。金沢の生まれ。父は名人気質の彫金師。九歳のとき母を失う。明治二十四年、尾崎紅葉の門に入り、「夜行巡査」「外科室」で認められる。ついで「照葉狂言」「草迷宮」「歌行燈」「婦系図」など。大正から昭和にかけて自然主義やプロレタリア文学がおこるなかに文壇とは遠いところで、幻想と怪異をもち、独特の文体美に支えられた偏奇性の強い文学を書きつづけた。

012

中島 敦

1909 - 1942

東京四谷の漢学者の家系に生まれる。一高・東大国文科を経て横浜高女の教師となる。誠実な教師生活のかたわら創作につとめ、「狼疾記」「かめれおん日記」などを発表。昭和十六年、教師を辞職、南洋庁書記官としてパラオ島に赴任したが持病の喘息をこじらせて帰国。この間、「光と風と夢」が芥川賞の候補にのぼったが入賞せず、ほとんど無名のうちに死去。死後、評価が始まった。

013

樋口一葉 ひぐち・いちよう

1872 - 1896

東京の府庁構内長屋に生まれる。本名は奈津。幼いころ草双紙を読み、和歌を学んだ。父の死後、困窮のなかに母と妹を養う。十九歳のとき半井桃水に師事して創作を始め、第一作が「闇桜」、ついで「うもれ木」によって注目をあびる。一時、下谷龍泉寺町で荒物・駄菓子屋を開いたが失敗。再び創作に専念し、「にごりえ」「十三夜」「たけくらべ」など次々に発表。二十四歳にして肺結核で死去。

014

谷崎潤一郎 たにざき・じゅんいちろう

1886 - 1965

東京日本橋の生まれ。東大国文科在学中、第二次「新思潮」に「刺青」「麒麟」を発表。以後の著述生活は半世紀あまり。「卍」「武州公秘話」「春琴抄」「細雪」「少将滋幹の母」などから晩年の「鍵」に至るまで、終始、旺盛な創作力に衰えをみせなかった。随筆に「陰翳礼讃」、また「源氏物語」の現代語訳がある。

015

柳田國男 やなぎだ・くにお

1875 - 1962

兵庫県の生まれ。十二のとき茨城県の長兄のもとに移る。和歌にしたしみ、一高時代は「文学界」に詩歌を投稿。東大法科を出て農商務省に入る。役人生活のかたわら民俗学にいそしみ、「石神問答」「遠野物語」「山島民譚集」を世に出す。貴族院書記官長を最後に官を辞して、民俗学に専念、「木綿以前の事」「妹の力」「海上の道」などの多くの著作によって独創的な柳田民俗学をうちたてた。

016

稲垣足穂 いたがき・たるほ

1900 - 1977

大阪・船場の生まれ。幼いころ兵庫県の明石に転じ、神戸界隈で育つ。少年時はヒコーキに熱中。関西学院卒業後、上京。はじめ飛行家、ついで画家をめざした。文学に転じたのち佐藤春夫の知己を得て「チョコレット」「星を造る人」を発表。イナガキ・タルホの名前で「一千一秒物語」を出す。放浪生活のかたわら、文壇とは遠いところで独特の作風による小説を書きつづけた。

017

森 鴎外 もり・おうがい

1862 - 1922

石州津和野生まれ。東大医学部を卒業、軍医として陸軍に入る。明治十七年より四年余りドイツ留学。帰朝後、医学、文学両面にわたって目ざましい活動を始める。「舞姫」「文づかひ」「即興詩人」翻訳、雑誌「スバル」の発刊、「雁」など。乃木大将の自刃を契機に歴史小説に移り、「阿部一族」「渋江抽斎」。軍医総監より陸軍省医務局長に昇りつめる一方、稀有な学匠文人の生涯をおくった。

018

澁澤龍彦 しぶさわ・たつひこ

1928 - 1987

東京・芝高輪の生まれ、東大仏文卒。在学中にシュルレアリスム、サドを知り、「黒魔術の手帖」「胡桃の中の世界」「異端の肖像」などによって異色の作家を紹介、わが国の文学風土に新しい分野を導き入れる。ほかに「偏愛的作家論」「悪魔のいる文学史」「玩物草紙」など。創作は初期のものに「犬狼都市」、長い中断をはさんで「うつろ舟」「唐草物語」「高丘親王航海記」など。

019

永井荷風 ながい・かふう

1879 - 1959

東京・小石川の生まれ。本名壮吉。別号断腸亭主人。若いころより芝居や寄席、遊里に遊び、文学に親しむ。二十代の西欧体験をもとに「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表。一時、慶応の文科教授、「三田文学」を主宰。ついで「日和下駄」「腕くらべ」「墨東綺譚」。戦争中は世相を黙殺して江戸戯作の世界に遊び、戦後は巷の老独身者として浅草を愛した。日記に「断腸亭日乗」がある。

020

林芙美子 はやし・ふみこ

1903 - 1951

福岡県門司市の生まれ。本名フミコ。幼いころより家庭的に恵まれず、尾道の女学校を卒業して上京、さまざまな職業と男性遍歴のかたわら詩や創作に打ちこむ。昭和四年、詩集「蒼馬を見たり」を刊行、翌年の「放浪記」によって一躍文壇に知られた。つづいて「風琴と魚の町」「清貧の書」「牡蠣」。戦後の代表作は「晩菊」「浮雲」。旺盛な仕事のさなかに心臓麻痺で急死。

021

志賀直哉 しが・なおや

1883 - 1971

宮城県石巻の生まれ。祖父直道、父直温ともに成功した実業家。学習院より東大英文科に進んだが、このころから小説家を志し、「或る朝」「網走まで」などを書く。雑誌「白樺」に参加。父親との確執により家を出て尾道、松江、奈良などを転々とした。その間のことは「暗夜行路」「和解」にくわしい。以後は短篇が主で、「赤西蠣太」「城の崎にて」「剃刀」「小僧の神様」など。

022

宮本常一 みやもと・つねいち

1907 - 1981

山口県大島生まれ。働きながら師範学校を卒業、小学校の教師になる。上京して渋沢敬三の主宰するアチック・ミューゼアム(日本常民文化研究所の前身)に入る。以後、農山漁村、僻地、離島をくまなく歩き、庶民の生活誌に重点をおいた、独自の方法による宮本民俗学を生みだした。その中から生まれたのが「忘れられた日本人」「旅の発見」「海をひらいた人びと」など。

023

幸田露伴 こうだ・ろはん

1867 - 1947

本名成行、別号蝸牛庵。江戸・下谷生まれ。いくつか学校に入ったが、どこも卒業せず、もっぱら図書館へ通って独学。二十二歳のときの「露団々」で文才を示し、「五重塔」「蒲生氏郷」「観画談」「運命」などのほか、多くの歴史小説によって史伝物に新境地をひらいた。七十歳をこえて香気にあふれる「幻談」「雪たたき」「連環記」を発表、世を驚かせた。

024

開高 健 かいこう・たけし

1930 - 1989

大阪の生まれ。戦後の焼け跡、闇市の中で青春を過した。大阪市立大を卒業後、洋酒会社宣伝部で時代の動向を的確にとらえた数々のコピーをつくる。かたわら創作を始め、「パニック」で注目をあび、「裸の王様」で芥川賞。ほかに「日本三文オペラ」「ロビンソンの末裔」など。ベトナムの戦場や、中国、東欧を精力的にルポ、行動する作家として知られた。

025

折口信夫 おりくち・しのぶ

1887 - 1953

大阪の生まれ。筆名釈迢空。幼いころより和歌にしたしむ。国学院で学び、はじめ中学の国語教師、やがて柳田國男を知り、民俗学、国文学の研究に入る。民間伝承採話のかたわら、短歌、詩、小説を書き、日本芸能史や古代研究にわたっては、実証にくわえて詩人的直観にもとづくおよそ類のない想像力と洞察にあふれた仕事をのこした。

026

川端康成 かわばた・やすなり

1899 - 1972

大阪天満の生まれ。幼いときに両親と死別、祖父母に育てられた。十六歳のときに祖父を失い、叔父のもとにひきとられる。このとき「十六歳の日記」を書いた。出世作は「招魂祭一景」、ついで「感情装飾」「掌の小説」。横光利一や片岡鉄兵らとともに新感覚派と呼ばれた。その後、「伊豆の踊り子」「浅草紅団」「禽獣」。戦後の代表作に「千羽鶴」「山の音」。ノーベル賞受賞後、自殺。

027

菊池 寛 きくち・かん

1888 - 1948

本名寛(ひろし)。高松の元藩儒の家の生まれ。極貧に育つ。大正五年、第四次「新思潮」に加わり「屋上の狂人」「父帰る」を発表。大学卒業後、時事新報社に入社。「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」で作家としての地位を確立。大阪毎日新聞社の客員となって長篇小説「真珠夫人」を連載、多くの読者を得た。大正十二年「文藝春秋」を創刊、やがて〝文壇の大御所″と呼ばれる実力者となった。

028

梶井基次郎 かじい・もとじろう

1901 - 1932

大阪・土佐堀通に生まれる。旧制三高のころ文学に開眼。東大英文科にすすんで友人たちと同人誌「青空」を創刊し、「檸檬」「城のある町にて」などを発表。肺を患い、伊豆湯ヶ島温泉へ転地。「ある心の風景」「Kの昇天」「桜の樹の下には」などを発表。病状の悪化にともない帰阪。小康を得た間に「闇の絵巻」執筆。三十歳のとき友人たちの尽力で創作集「檸檬」刊行。翌年、死去。

029

夏目漱石 なつめ・そうせき

1867 - 1916

東京牛込の生まれ。本名金之助。生後まもなく養子に出され、九歳のとき生家に戻る。東大英文科卒業後、愛媛の松山中学、熊本の五高で英語教師。明治三十三年、イギリスに留学。帰国後、一高教授、東大講師。友人高浜虚子の俳誌「ホトトギス」に書いた「吾輩は猫である」が大評判となり、「坊っちゃん」「草枕」を書く。朝日新聞に客員として入社、作家生活に入る。

030

色川武大 いろかわ・たけひろ

1929 - 1989

東京生まれ。幼いころから病弱で旧制中学中退後は放浪生活。雑誌記者をつとめながら麻雀に熱中。阿佐田哲也のペンネームで「麻雀放浪記」などの麻雀小説を書く。四十ちかくになって「怪しい来客簿」などで実力を認められ、「百」「生家へ」「狂人日記」などの秀作を発表、その矢先に急逝した。

031

夢野久作 ゆめの・きゅうさく

1889 - 1936

本名杉山泰道。政治結社玄洋社系の杉山茂丸の長男として福岡に生まれる。初め近衛歩兵第一聯隊に入隊。除隊後、農園経営、僧侶、謡曲教授、新聞記者など、職業を転々とする。37歳のときに「あやかしの鼓」を発表して注目をあびる。「瓶詰地獄」「氷の涯」「ドグラ・マグラ」などによって特異な文学世界を生み出した。

032

岡本綺堂 おかもと・きどう

1872 - 1939

東京・芝高輪の生まれ。本名敬二。父は元御家人。府立一中を出て東京日日新聞に入社。主として劇評を書く。かたわら漢書や英書を耽読。19のとき狂言綺語にちなんで狂綺堂と称し、のち綺堂と定めた。劇作よりはじめ、「修禅寺物語」「相馬の金さん」など多くの戯曲を発表。江戸に関する豊かな知識にもとづいた「半七捕物帳」「三浦老人昔話」によって、ひろく読者に愛された。

033

石川啄木 いしかわ・たくぼく

1886 - 1912

岩手県生まれ。本名一。早くより詩才を発揮し、20歳のとき詩集『あこがれ』を発表。生活苦のため函館、札幌、釧路などを転々としたのち上京、小説家をめざして「雲は天才である」「鳥影」などを書いたが失敗。この間に試みた三行書きの短歌で新機軸をひらく。大逆事件を契機に社会主義思想に接近、「時代閉塞の現状」など鋭い時代批判を書きのこした。

034

寺田寅彦 てらだ・とらひこ

1878 - 1935

東京・麹町の生まれ。父の郷里高知の中学から五高に進学、夏雌お席に英語を学んだ。東大物理学科で実験物理学を専攻、卒業ののちヨーロッパに留学、ついで東大教授。その後、理化学研究所、地震研究所に関係。早くより文筆を好み、漱石の紹介で「ホトトギス」に小品を載せたのを皮切りに、吉村冬彦、藪柑子などのペンネームで数多くの警抜な随筆を書いた。

035

織田作之助 おだ・さくのすけ

1923 - 1947

大阪・上汐町の仕出し屋に生まれる。旧制三高中退後、文学的彷徨をかさね、「夫婦善哉」により新進作家としてデビュー。戦争中は「青春の逆説」が発禁処分を受けた。戦後、堰を切ったように作品を発表、坂口安吾や石川淳らとともに「無頼派」と呼ばれ、一躍文壇の寵児になった。長篇「土曜婦人」を連載中、喀血して倒れる。作品はほかに「木の都」「ニコ狆先生」「競馬」。

036

萩原朔太郎 はぎわら・さくたろう

1886 - 1942

群馬県前橋の生まれ。熊本の五高、岡山の六高をともに中退。音楽に親しみ、マンドリンを習う。27歳のとき北原白秋の雑誌「朱欒(ザンボア)」に詩を発表、大正6年(1917)抒情詩55篇、長篇詩2篇を選んで『月に吠える』を刊行、第2詩集は6年後の『青猫』。さらに「郷土望景詩」、「氷島」へとつづく作品によって日本の近代詩を確立した。ほかに小説「猫町」など。

037

岡本かの子 おかもと・かのこ

1889 - 1939

本名カノ。生家は神奈川県二子多摩川在の大地主。文学青年だった兄の影響で幼いころから文学に親しむ。跡見女学校を出て与謝野晶子に師事、「明星」「スバル」などに短歌を発表。画学生岡本一平と結婚、一平が漫画・漫文で時代の寵児となる一方、かの子は仏教を研鑽。のちに小説に専念。「鶴は病み木」以降、晩年の四年たらずの間に驚くべき量と質の作品をなしとげた。

038

金子光晴 かねこ・みつはる

1895 - 1975

愛知県津島の生まれ。早大、東京美術学校、慶大をいずれも中退。24歳のときヨーロッパに渡り、イギリス、ベルギーを放浪。帰国後、象徴詩的な作風による「こがね虫」を出す。昭和3年(1928)、再び渡欧、足かけ5年フランスなどに滞在、帰国して発表したのが代表作の「鮫」。多くのすぐれた反戦詩は戦後ようやく陽の目をみた。ほかに詩集『蛾』、自伝「詩人」など。 

039

堀 辰雄 ほり・たつお

1904 - 1953

東京麹町生まれ。高校から大学時代に神西清、室生犀星、芥川龍之介を知る。関東大震災で母を失う。処女作は「ルウベンスの偽画」。ついで「麦藁帽子」「聖家族」「美しい村」。結核を患い、昭和十年代を信州富士見、信濃追分ですごす。「風立ちぬ」「かげろふの日記」はこの間の作。戦中から戦後にかけて、立原道造、福永武彦などの若い世代に強い影響を与えた。

040

正岡子規 まさおか・しき

1867 - 1902

伊予・松山の生まれ。本名常規。はじめ政治家志望、ついで文学を志す。喀血後、子規と号した。下谷根津に居をかまえ、脊椎カリエスによって床についたきりの身でありながら、旺盛な精神活動を展開。近代俳句を提唱し、また短歌革新に着手、写生文を主張して新しい散文運動を起こした。「病牀六尺」「仰臥漫録」など。絶筆は「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」。

イラスト=PLUMP PLUM