浪速のスーパーティーチャー守本の授業実践例

第二章 小説

4 『変身』 フランツ・カフカ

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② 家族への関心――家族という共同体

 自分の死んだ後に残された世界のことを思い描くという人がいます。自分が死んだ後、人はどう悲しみ、どう苦悩するか、あるいは、どう喜ぶのかで、その人たちにとって自分はどのような存在であるかがわかるというわけです。現在の関係からでははっきり見えないものが見えてくるというわけです。現実は常に現実の論理で均衡を保っていますから、真実は常に露わになっているとは言えません。自分には、社会(家族)の中で確固とした位置・地位があるという思いもありますが、そこに時々隙間を感じることもあるのでしょう。そういう思いが「自分が死ねば……」という想像をもたらすのかもしれません。

 そう思うと、「虫」は死以上にもっと残酷です。一番望まれないものになってしまうのですから。死がゼロだとすれば虫はマイナスともいえます。残されたものにとってこれ以上の試練はないでしょう。『山月記』が「もし、虎になったら人間はどうなる」という視点で描かれているとすれば、この小説の主題は、「自分がある日突然、虫になったらどうしよう」という自分の問題ではなく、「自分が虫になったら家族はどうするだろう」という家族の問題、自分と家族との問題なのです。だからこそ、家族の「変身」に関心がいくのです。

 家長として献身的に尽くしている自分が虫になった時の家族反応が気になって仕方ないのです。母親は途方に暮れますが、自分を頼りにしきっていた愛らしい妹も悲嘆にくれるのでしょうか。身体が思うようにならないリタイアした父親は、生活の当てもなくなり憔悴するのでしょうか。

 母親の心は終始息子グレーゴルに寄り添っていて、そう変化はありません。しかし、可憐で、兄を頼りとしていた妹は、両親を叱咤し、率先して虫になった兄を厄介払いしようとします。物静かでほとんど引退状態であった父親も、家長の座に復帰して活き活きとして、行動的になっていきます。グレーゴルは、自分の変身よりこの二人の変身に驚いたことでしょう。

 家族とは最も互いのことを知り合っていて、言葉を交わさなくても通じ合うという思いがあります。また、家族は無償の愛で献身的に互いを支え合っているという物語の読み解きのコードがありますが、この小説を読むとそれは思い込みかもしれないということを思うようになってきます。表面的には働き手に敬意を示していても、打算的で自分の本音を隠している家族。家族という美名の中で、本質が隠蔽されているのです。作者は、それを露わにすることを意図したのです。

 では、家族の本音や本性を赤裸々に描き出してこの小説は終わりかといえば、そうではありません。ここからがこの小説の真骨頂なのです。妹から決別を突きつけられたグレーゴルは自室に戻った後、死の予感の中で妹の言葉を噛みしめます。

 家族のことを懐かしみと愛情をこめて思い返した。消え失せなくてはならないと、たぶん、妹以上に彼自身が思い定めていた。むなしいような、そしてやすらかな思いのなかで、グレーゴルは塔の時計が朝の三時を告げるまで、そのままじっとしていた。(同書98頁12行目)

 死の自覚の中で、グレーゴルは死の恐怖に襲われるより、むしろ、やすらかな気持ちになっています。自らの死が家族の幸福につながることを知っているからです。実際、彼の死後、両親と妹は郊外に出かけます。

 それから三人そろって家を出た。もう何か月もしたことがなかったことだ。そして電車で郊外へ出かけた。車内は彼ら親子だけで、あたたかい陽射しがさしこんでいた。三人はのんびりと座席にもたれ、将来の見通しを話し合った。よく考えると、現状はさほどひどいものでもないのである。(同書106頁12行目)

 ここには、明るい未来の希望であふれています。また、グレーゴルという重荷からの解放感が横溢しています。グレーゴルの死が家族にこの明るさをもたらしたのです。つまり、この幸福感をグレーゴルは自らの死と引き替えに家族に与えたのです。ここには自己犠牲による満足感という屈折した家族への愛が見られます。また、自虐的な自己愛ともとらえられます。そして、このグレーゴルの満足感と自己愛は、家族とのつながりの実感をもたらしたものだともいえます。この屈折した愛の切なさが読む者の心をうつのですが、この屈折はどこから来るのでしょうか。

 近代によって個人が出現したといわれますが、それは共同体から離れて個人が成立したということでもあります。最初に属する最小の共同体としての家族とは、個人の単なる共同ではなく、血によってつながっているわけですから、そう簡単にはその柵から抜け出すことはできません。これが家族の難しさなのです。個人としての自分と、家族としての自分という葛藤は、近代以後の文学の一つの主題でもあるのです。

 そしてカフカは、家族とのつながりの中に自らを見出だそうとする主人公・グレーゴルを描き出しているのです。社会の中ではなく、家族の中に自分を見出だすというのが特異です。社会より家族の比重が大きいのです。

 尊属殺人という言葉があって、子が親を殺めるということが特異であった時代があったのですが、最近では日常的に親と子にまつわる事件が日常化して、その言葉も姿を消したようです。家族にまつわる事件の多発は、親子関係・家族関係の難しさを示す例でもあるのですが、当事者にとって、それほど家族関係が自分の心に占める比重が大きいということでもあります。近親憎悪というのは家族ゆえに憎しみ合うということなのですが、その憎しみの背後には屈折した愛があることも多いのです。近親憎悪と家族愛、家族を自分の鏡として見れば、それは自己嫌悪と自己愛との関係にも見えます。やはり、家族という共同体からの個人との問題がそこにあるのでしょう。

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