ちくま評論入門二訂版 編者の言葉

この本は、自分の頭で考えようとする若い人々のために、その思考を豊かで確かな場所に導くことを願って編んだものである。幸いにして多くの若い読者に迎えられたが、改訂の機会を得て、収録評論を大幅に入れ替え、別冊解答編にも新たな工夫を試みた。人間は、自己と世界を深く考えることで、自由になる。この本が、若い人々の思考が目覚める場となれば、編者たちのよろこびはそこに尽きる。

評論とは何だろうか。およそ言葉というものは、対象を、描くか、歌うか、論じるか、に大別できる。小説は描く、詩は歌う、評論は論じるのである。評論は、その主題を分析することによって読者に、それを我がものとして考えさせる文章である。評論は耳に訴えるのではなく、目に訴える。目をとおして頭に訴え、そうして初めて、心にはたらく文章である。頭とは、理非曲直を見分ける判断力、あるいは理性である。評論は、主題の理解に関わらない雄弁や美的な装飾を嫌う。評論は、感情ではなく理性に訴えるから、読者を考える人間に返す。この世界で必要とされる資質は、自分の頭で考えようとする意欲と、自由な人間であることを恐れない勇気である。

評論は、また公共的な表現である。私的な世界に留まるものではない。だれひとりとして、言葉を自分自身で作りはしない。長い歴史と多くの人々の経験のなかで育ってきた言葉で、私たちは考え、表現する。私的な言語は存在しない。それゆえに、自分のなかで思考することは自分を相手とした対話であり、その考えを他者に向けて表現することは公共的な対話となる。この対話を成立させるためには、言葉の通用範囲をきちんと定義し、だれにでも納得できる普遍的な論理で主題を分析し、分析された要素のつながりを明確にしなければならない。私的な言語は存在しないが、私的に用いられない言語も存在しない。言語の私的限界を意識しない評論は、単なる独断である。他者の理解を得るために、言葉を吟味し、問題の正確な解明と豊かな結論をめざして紆余曲折する。そこに、評論の生命がある。

評論はまた、危機の表現である。評論文は事物の批評であるが、“Critical”という形容詞には、「批評の」と「危機的な」という意味がある。人が世界に向けて語りかけようとするとき、そこには強い危機意識がある。世界に解明と解決とを必要とする危機がある、という認識が、強く深い動機となり、評論という表現行為を促す。危機意識に貫かれていない評論はつまらない文章である。この本に集められた評論は、いまここにある危機を解明しようとする意欲に貫かれている。危機の理解はきみたちの中に、新しい認識を育てるだろう。

最後に、評論は、人の置かれた様々な制約を超えて、理性による合意を深め、友情を求める声であることを強調しよう。世界は、その現実が危機的であるほど、友情と共感を求めている。この本は、友情を求める様々な声でできているのである。

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