ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 定番教材の誕生 第3回(4/6)
第1回 “恐るべき画一化”―定番教材はなぜ消えない
第2回 “生き残りの罪障感”―定番教材の法則
第3回 “復員兵が見た世界”―定番教材にひそむ戦場体験
第4回 “ぼんやりとしたうしろめたさ”―定番教材の生き残り
第5回 “豊かな社会の罪障感”―定番教材のゆくえ
野中潤(のなか・じゅん)
聖光学院中・高教諭
日本大学非常勤講師
著者のブログ
BUNGAKU@モダン日本
第3回 “復員兵が見た世界”―定番教材にひそむ戦場体験
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6.戦場体験と定番教材

「高瀬舟」を復員兵が読んだら…

 定番教材の受容史の問題を考えるために、一つの思考実験をしてみようと思います。

 「思考実験」と大仰に言うほどのことではないかもしれませんが、フィリピンで極限状況の中を生き抜いた中内功のような復員兵が、定番教材の一つである「高瀬舟」を読んだとしたら、いったいそこに何が見えただろうかということを想像してみたいのです。

 森鴎外の「高瀬舟」は、1916(大正5)年1月に発表された短編小説です。主な登場人物は、江戸時代の寛政年間に弟殺しの罪で島流しになる喜助と、彼を高瀬舟で護送する同心の羽田庄兵衛です。

 護送役の庄兵衛は、弟殺しをして流罪となった喜助が「遊山船にでも乗ったような顔」をしているのを不思議に思って「お前何を思っているのか」と喜助に問いかけます。庄兵衛の問いかけに対して答える喜助の打ち明け話が、この物語の中心です。

 喜助の打ち明け話が投げかける問題は、森鴎外が書いた「『高瀬舟』縁起」という自作解説によれば、「知足」と「安楽死」という二つに分けられるのですが、いま注目しておきたいのは二つ目の「安楽死」の問題、言いかえれば「弟殺し」の問題です。

 幼い頃に両親を流行の病で亡くした喜助は、弟と助け合い、貧しいながらも何とか二人暮らしを続けてきました。ところが弟が突然の病に倒れ、働けなくなります。兄ばかりが働き、苦労していることに対して負い目を感じるようになった弟は、自殺を企てて剃刀を自分の咽喉に突き立ててしまいます。

 仕事を終えて帰宅した喜助がもがき苦しんでいる弟に事情を聞くと、「どうせなおりそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄きに楽がさせたいと思ったのだ」と苦しそうな声で言い、「剃刀が刺さったままでは苦しくて仕方ないから、引き抜いて自分を死なせて欲しい」と懇願します。葛藤の末、喜助がやむを得ず咽喉に刺さった剃刀を引き抜くと、弟はそのまま絶命してしまうのです。

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