ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 定番教材の誕生 第5回(3/5)
第1回 “恐るべき画一化”―定番教材はなぜ消えない
第2回 “生き残りの罪障感”―定番教材の法則
第3回 “復員兵が見た世界”―定番教材にひそむ戦場体験
第4回 “ぼんやりとしたうしろめたさ”―定番教材の生き残り
第5回 “豊かな社会の罪障感”―定番教材のゆくえ
野中潤(のなか・じゅん)
聖光学院中・高教諭
日本大学非常勤講師
著者のブログ
BUNGAKU@モダン日本
第5回 “豊かな社会の罪障感”―定番教材のゆくえ
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全共闘世代と“生き残りの罪障感”

 敗戦後に生き残りの罪障感を覚えた日本人の典型例は中内功(連載3回目参照)のような復員兵です。そして生き残って日本に帰ってきた復員兵たちの子どもが、1947(昭和22)年から1949(昭和24)年にかけて生まれた、いわゆる“団塊の世代”です。

 団塊の世代の人たちは、1960年代には高校生になり、1956(昭和31)年に採録が始まってまさに定番化への道を歩み始めていた時期に、「こころ」「羅生門」「舞姫」といった教材の授業を受けることになりました。しかも、復員兵であったかどうかはともかく、何らかの“生き残りの罪障感”を抱えていたであろう戦争経験者の教員が、これらの定番教材の授業を担当していたはずです。

 そう考えると、“団塊の世代”の人々が“生き残りの罪障感”をどのように継承したのか、あるいはしなかったのかという問題が、誕生した定番教材が今日にいたるまで読み継がれている理由を解き明かす大きな鍵だと言えそうです。

 たとえば、自身も“団塊の世代”である漫画家のかわぐちかいじさんは、『回想 沈黙の団塊世代へ』(2005年・ちくま文庫)の中で、父親との対話をおこたってきた過去を振り返り、こう述べています。

 これはわれわれ団塊の世代の悪い癖だ。世代としての親と敵対することはあっても、個としての親と向き合うことは避けてしまうのだ。それは不安な気持ちから、親たちの戦争体験をキチンと問わなかったことに起因している。自分の親が経験した「戦争」を聞くことから逃げてきたのだ。  われわれは、親が何者であるのかを聞くことが怖かった。もしかしたら自分の父親が、大陸で人を殺してきたのかもしれない。その悲しい運命の上に、自分の「生」が約束されたのかもしれない。それを聞くことから逃げてきた。

 復員兵の子どもとして生まれたかわぐちかいじさんが感じた怖れや不安を安易に一般化することはできませんが、同じような気持を抱えて生きてきた人々が団塊の世代の中に少なからずいるであろうことは想像に難くありません。

 たとえば、個人的な体験と世代的な体験との関係を自問自答しながら書き進められていく小阪修平さんの『思想としての全共闘世代』(2006年・ちくま新書)の場合も、戦争体験について「キチンと問わなかった」ということなのでしょうか、学徒出陣したという父親の過去についての詳しい記述はありません。ただ、祖父が満洲国の警察官僚だったことに言及し、父親が復員してから母親の親族が経営している相互銀行に入社して若くして支店長にまでのぼりつめたことを語る小阪修平さんが、自らを「中のやや上」の階層で「甘ちゃん」だったと書いているあたりに、“ぼんやりとしたうしろめたさ”のようなものの片鱗を見ることができます(第二章「戦後民主主義と空想」)。意地悪な言い方をすれば、小阪修平さんは、国家権力の一翼を担って大陸への侵略に加担した上に、復員後も母方の人脈をたよって出世した父親によって育てられたということになるわけです。

 戦争体験を抱えた父親の過去を問うことを怖れ、自分の「生」の成り立ちに対して不安な気持ちを抱えるかわぐちかいじさんの姿や、「全共闘世代の経験史」(あとがき)を書く上できわめて限定的に祖父や父のことを語っている小阪修平さんの姿の中に、1962年に生まれて高度成長期に育てられ、豊かな大量消費社会の中で生きてきた“新人類世代”の私が感じている“ぼんやりとしたうしろめたさ”に通じるものを見る思いがします。

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