メッセージ

小川洋子 遮断された世界

小川洋子 (作家)

 候補作を読み終えたあと、「何だかよく分からないなあ」とつぶやいてしまうのは、選考委員として失格だろうか。分からないことが、私は嫌ではない。その分からないところが面白い、分からないからこそ意味深い、と感じる経験はしばしばある。いくつものそういう小説の前で、外の世界との間に安易な了解を結んでいる自分を恥ずかしく思い、畏怖にも似た気持を抱いてきた。
 しかし、『会えなかった人』の場合、少し勝手が違う。今回私が味わったのは、不安、居心地の悪さ、苛立ち、あるいは諦めであった。
 主要な登場人物は、旗、真崎、園井、鏑木の四人。だが本当に四人なのか。もしかしたら、そもそも鏑木など存在せず、園井が演じていただけかもしれない。更に言えば、園井イコール旗であり、園井は旗が生み出した願望の現われなのだろうか。だからこそ園井は、出会って間もない真崎の前でいきなりブラウスのボタンを外し、火傷の傷痕を見せたり、真崎の靴下を剝ぎ取ったりしたのだ。いや、旗ではなく、真崎の仕業だという可能性もある。すべては彼の心に映し出された。実体のない幻だったのか……。
 たぶん、どの解釈もピントが外れているのだろう。いくら考えても私は、自分の居るべき場所にたどり着けない。トチの実を握ったり、トーテムポールを見上げたり、無残に焼けた生ゴミ処理機の前で立ちすくんだりしているうちに、どんどん袋小路に追い込まれ、一人置き去りにされている。私になどお構いなく四人は遠ざかり、立体的なふくらみや体温を失い、平板な影となって誰が誰か区別がつかないまま、やがて見えなくなってしまう。
 問題なのは、正解がつかめないことではなく、小説の世界と読み手との間に通路を見つけ出せないことなのだ。彼らは確かに自分のそばにいる。おとぎ話の国で花火を待っているわけではない。にもかかわらず、彼らと私の間は決定的に遮断されている。トチの実もトーテムポールも生ゴミ処理機も、私とは無関係な世界に閉じ込められ、微かな合図も送られてはこない。
 この感触を楽しめるかどうかが、作品の評価を左右するのだろうと思う。最終候補作四作の中で、各選考委員が最も多くの言葉を費やして語ったのが、『会えなかった人』についてだった。話し合ってゆくうち、新たな謎が生まれ、それに対する解釈がなされ、また次の問題が発生する。うなずいたり首を傾げたりしているうちに、知らず知らず時が経っている。こうした選考の時間を楽しむことができたので、私は授賞に反対しなかった。
 ただ、この得体の知れない独自な世界が独りよがりに完結せず、どこかの裂け目から沁み出し、小さな流れとなり、音もなく読み手の足元を浸してゆくような不気味さを持っていたら、と思わずにはいられない。その裂け目は作者も知らない場所に潜んでいて、沁み出す勢いはどんな計算をも上回っている。私が求めたのは、つまりそういう通路だった。とにかく、分からないことにもっとぞっとしたかった、というのが本音である。
 逆に、あまりにもよく分かりすぎてかえって物足りなかったのが『それぞれのマラソン』だった。平凡で地味な陸上部員たちがやがて大人になり、一人一人屈折を抱えながらマラソンを走る。目標を達成する者、夫婦二人で走りきる者、途中でリタイアする者。結果は異なるが、皆何かしらの充実感を得る……。最初読みはじめてほどなく立てた予想が、気持ちよく全部的中した。
〝八年経っても、僕はバカのままなのだ。きっとずっと、バカのままなのだ〟。
 そう言いきる主人公は愛すべき青年だ。男の子が持つ特有の熱さ、単純さを彼は始終振りまいている。マラソンという運動の中で、彼のキャラクターは一層輝きを増す。
 また、レースの描写がとても生き生きしている。何万人もの人間が一つの場所に集合し、一斉にただ走ることの不思議や、握り締めた梅干一個が、最も苦しい場面で特別な力を帯びてくる迫力が、印象深く心に残る。
 新人賞の応募作品の場合、多くは長すぎるのがマイナスになるのだが、この作品については、もっとたっぷり書いてもよかったのに、と感じた。特に香山の病については、もっと丁寧に追求してほしかった。このままではストーリーに起伏を持たせるための、単なる一つの道具になってしまう恐れがある。
〝これ以上の何を、一体自分は求めるというのだ? この平和で温かなひと時以上の何を、一体自分は求めるというのだ〟。
 途中棄権した香山のこのつぶやきを、薄っぺらな感動で括ってしまうのは、あまりにも惜しい。
『ゆめのみらい』は傷の目立つ作品かもしれないが、私は最も傑作になる可能性を持っていたのではと感じている。最初、マンションの掲示板にアキが暗号を貼り付け、それにホンジョーが応えてくるあたり、面白くなりそうな予感に満ちていた。そのホンジョーが楽器店でベースを弾く場面には迫力があった。ドライバーを探し回り、それでマンションの床を掘ってゆく正体不明の男、ヤマダがどんな役目を背負っているのか、期待を持った。スケートボードで街の設計図を書き換える、という発想もユニークな展開に広がりそうだった。
 けれど結局、作者自身、自分の生み出した人物たちをどう扱ったらいいのか、混乱してしまったのかもしれない。風呂敷は大きく広げてみたものの、広げっぱなしにしたまま、いろいろなエピソードも登場人物たちも放り投げ、最後、アキの孤独という安易な一言にすがった。そんな印象を拭えない。
 ただし、どんどん風呂敷は広げるべきなのだ。畳み方など考える必要はない。だから佐々木さんにはもっともっと書いてほしいと思う。
 村上春樹の小説を連想せずに、『ブギー』を読むのは難しい。最初、数字からスタートする。続いて小説の内容とは無関係なプラザ合意についての記述がある。時代と自分との関わりが、冷めた目で語られる。手の込んだ、回りくどい比喩が繰り返される。
 別に村上春樹に似ているからといって悪いわけではない。しかしやはり、無防備だと思う。
『それぞれのマラソン』の僕が自分のバカさ加減を十分自覚しているのに対し、『ブギー』の僕は〝……自分は生まれついて平均的な人間よりも頭が良いと信じている……〟と明言するような人物だ。どうしようもない偏見にとらわれ、幼稚な価値観しか持ち合わせていない。だからこそ浩子をつなぎとめるための方法として、司法試験を目指したりする。
 彼のこの幼稚さが、青春時代特有の痛々しいほどの真っ直ぐさを表していると言えなくもない。しかし気になるのは、作者自身が主人公の愚かさをどれくらい客観視できているのか、という問題である。書くべきものとの距離のとり方について、もう少し自覚的であってほしかった。