2007年11月14日、梅田望夫さんによる『ウェブ時代をゆく――いかに働き、いかに学ぶか』(ちくま新書)の刊行記念講演会が、 丸善丸の内本店3F日経セミナールームで開催されました。以下はその講演の抄録です。

頭で読むか、心で読むか

 本に囲まれて育ちました。本が好きです。子どもの頃、当時の日本橋の丸善に、作家だった父に連れられて始終きていましたから、今日丸善でお話をするというのはとても感慨深いです。そういう環境で育ったので、本には特別な思い入れがあります。特に日本の出版をめぐる文化が好きで、出版社の編集者の人たちとか書店で本を売っている人たち、本に敬意を抱きながら日々生活をしている、そういう人たちやそういう文化が好きです。ある偶然でものを書くようになりましたが、職業作家ではありませんから、本を書くということは、自分の人生にとって突然訪れた大きなイベントで、本を書くことに過剰なエネルギーをつぎ込んでしまいます。

 『ウェブ進化論』は一生に一冊の、前半生の総決算のような本を書いてみたいと思って書きました。発売前は、誰も売れると思っていなかったのですが、実際は、発売からあっという間に多くの人が買ってくださり、40万部近く売れました。読者はきっと、もう1冊だけは買ってくれるでしょう。でも、10年後だと忘れられてしまう。だから2年以内になんとかしようということで、2008年3月までは本にかかわる仕事をファーストプライオリティにおくことにして、やってきました。それで、『ウェブ時代をゆく』は、まる一年ほかのことをほとんど何もしないで書いた、そういう本です。

 『ウェブ時代をゆく』が発売されて1週間たちましたが、この間、この本についてのネット上の感想を全部読んでいます。だいたい、多い時間帯は「時速」4個くらいあがってくるので、夜もあまり寝ていられず、眠りが浅くなります。そういうネット上の感想を読んでいて、本を読むには二つのタイプがあるということに気づきました。一つ目のタイプは「頭で読む人」。二つ目のタイプは「心で読む人」。
 「頭で読む人」には、今回の『ウェブ時代をゆく』は受け入れにくい面があるかもしれません。ちなみに『ウェブ進化論』は「頭で読む人」にもOKな本です。「頭で読む人」というのは、そこに書いているファクトが新しいかどうか、自分が知らないことが書かれているかどうかをチェックするという読み方をします。遠いところから「本に書かれている知」を傍観者として論評します。
 一方、市井の人々、もがきながら生きている人は心で読む。『ウェブ時代をゆく』は「心で読む」人に向けて書いた本であり、そういう人たちにはきっちりとどいていると、感想を読みながら感じています。

「the rest of us」に向けて

 『ウェブ時代をゆく』は、日本語のタイトルが決まる前に、僕の心の中で英語のタイトルが決まっていました。それは、「Web revolution for the rest of us. 」というものです。80年代に、僕はコンサルタントとして、アップル(アップル・コンピュータ)の仕事をしていたのですが、アップルの人たちは自分たちが作っているのは、「Computer for the rest of us.」だと言っていました。80年代というのは、コンピュータはプロの人だけのもの、ITリテラシーの高い人たちのものであり、「残りの人たち(the rest of us)」には使えなかった。ウィンドウズもなかった時代のことです。

 『ウェブ進化論』では、ネット時代を切り開いていく最先端の人たちに、がんばってやれば君たちもできるよ、ということを伝えたかった。つまり、「心で読む」読書という部分における読者層としては、一番先頭を走っている人を対象にメッセージを込めた。今度の『ウェブ時代をゆく』は、「the rest of us」に向けて書いた本なんですよ。ウェブというのは、老若男女すべての人に影響を及ぼす。そういう人たちがウェブ時代にどう生きていけばよいのか、ということを考えました。「頭で読む」読書の人は、『ウェブ進化論』の続編に「バーチャル経済圏」の話や「グーグルのその後」などを期待するわけですが、それは「the rest of us」にはあまり関係ないんですよ。ほとんどの人は、リアルの世界で、いろいろなしがらみのなかでもがいて生きていて、そういう中に道具としてのウェブがある。そのような目線で、ウェブ時代がどういう意味をもっているかということを考えていく。そういう「the rest of us」に向けて、ということが、この本の主題になっています。

 日本語のタイトル『ウェブ時代をゆく』はどこから来ているのか。勘のいい人は、司馬遼太郎の著作からとったと気づくと思いますが、それにたどりつくまで、3カ月くらい悩みました。「ウェブ~論」というタイトルを最初に考えました。人生論、職業論、幸福論。でも、あらゆる新書から2冊ずつくらい「ウェブ~」の本が出てしまって、みんな「ウェブ」本に飽きている。だから「ウェブ」をつけるかどうかも悩んだのですが、「ウェブ~論」ではない形で「ウェブ」はやはり入れようということになった。じゃあ、ウェブとどの言葉の組み合わせにするか。考えすぎて思いつけない。そういう時は、本棚に向かう。「困ったときには本棚に向かう」というのが、僕の人生の流儀です。それで、本棚を見ると、たとえば江藤淳『漱石とその時代』。「ウェブとその時代」はどうかな、とか(笑)。そんなふうに本棚を見て行きました。僕の本棚には司馬遼太郎のコーナーがあって、『街道をゆく』『竜馬がゆく』……。「ウェブ時代をゆく」。いいかもしれない。それで、グーグル検索をして、グーグルのスペースがあいている、つまり「ウェブ時代をゆく」という言葉が存在しないことを確認して、これで行こうということになりました。

 ロールモデル思考法(第4章)というのが、この本の肝なんですが、この本そのものにもロールモデルがあります。はじめに言っておきますが、ロールモデルというのは、その対象がどんなに偉い人(あるいは「もの」)であっても、消費してしまっていいんだよ、と僕は思っています。対象となる人が遥かに大きな存在であっても自由に消費していいんです。
 『ウェブ進化論』のロールモデルは小林秀雄の『近代絵画』でした。僕は、「絵ってどこが面白いんだろう」と長年思っていたのが、あるとき、『近代絵画』を読んで、「こういうことだったのか」と、目からウロコが何枚も落ちる思いがしたのです。自分が絵画に対して抱いていたような気持ちをウェブについて抱いている人に向けて、僕が『近代絵画』から得たようなインパクトを与えられるような本が書きたいなと思い、『近代絵画』をロールモデルにしました。

 では、『ウェブ時代をゆく』のロールモデルはというと、『ウェブ進化論』と『ウェブ時代をゆく』が対(つい)になっているという意味で、福澤諭吉の『西洋事情』と『学問のすすめ』が頭のなかにありました。福澤諭吉の『西洋事情』は、明治の時代に西洋はこうなっていますよということを書いた。それがウェブ時代の『ウェブ進化論』に相当するとすれば、ウェブ時代に自分たちはどうやって生きていったらいいか、というのが、福澤諭吉の場合は『学問のすすめ』だったわけですね。そういう、対になっているという意味で、『ウェブ時代をゆく』のロールモデルを『学問のすすめ』におきました。
 それぞれの章にもロールモデルがあります。ひとつだけ挙げると、序章は、犬養道子『新約聖書物語』の序章がロールモデルになっています。犬養道子の前著『旧約聖書物語』をギュッと縮めたもので、短くて格調が高い序章です。こういう序章を書きたいと思い、その執筆だけに何カ月も費やしました。

なぜ自分の話を書いたのか

 僕はもともとは数学をやりたい、数学者になりたいと思っていました。高校から大学ぐらいにかけて、とてもじゃないけど、数学を一生やっていくという根性・才能はないなと感じて、ちょっと横のコンピュータ・サイエンスをやり始めました。大学院まで行ったのですが、周りをみていると、自分よりもコンピュータ・サイエンスに愛情をもっている人たちばっかりでした。愛情のレベルがちがう。そうすると、この人たちよりうまくいかないだろうなと思う。となると、その歳まで精一杯やってきたことが、ほとんど全滅なわけです。24歳くらいまでにやってきたことでその先の人生を切り拓いていくことができない。

 この本の第4章に書きましたとおり、紆余曲折あって、経営コンサルタントになるわけですが、その道一筋の大前研一さんのようなところまではいけていない。シリコンバレーに13年いても、日本に向けて仕事をしていることもあって、本当のインサイダーにはなれない。ベンチャー・キャピタルでは、1号ファンドというのを、30億円くらいのお金を集めて、そこそこうまくいっているのですが、本気でやるんだったらその10倍くらいのお金を2号ファンドとして今頃集めていなければならない。ところが絶対勝てると信じこめないからそのガッツが出ない。

 45歳になったとき、自分の前半生について二つの感想を持ちました。「たいしたことができなかった人生だったな」という残念な気持ちが、一面です。数学もコンピュータ・サイエンスも、経営コンサルタントとしても、シリコンバレー人としてもベンチャー・キャピタルも、どれも中途半端。でもそういう総括の仕方しかないというのはさびしい。その一方で、「自分なりに自分の生き方に筋を通して一生懸命必死にやってきた」という自負のようなものはある。「the rest of us」は、みんな似たような感慨をもちながら生きているのだと思います。
 ひとつの道をワーッと行けたというわけではないけれど、恥ずかしくて逃げ出さなくちゃいけないほどくだらない人生なんかじゃない。僕自身、僕が生きてきたようなそういう道筋が人生にあるんだということを、誰からも教わらなかったから、自分のことをこの本に書きこもうと思いました。

 この本のなかで、「新しい職業」「けものみち」というコンセプトを打ち出しています。たとえば、羽生善治さんのように一芸をきわめて突き抜けた人(「高く険しい道」を行った人)は、伝記が書かれるような人生だけれど、たいていの人はそうではないから、ゴチャゴチャといろいろなことをやりながら生きる。そんな人生の在りようが、日本では言語化されていない。それで、「高く険しい道」と「けものみち」を分け、「古い職業」と「新しい職業」というのを分け、「新しい職業」「けものみち」を歩いていく人生の在りよう、ということの言語化をしようと思いました。それを書けば、日本社会に合わなくて苦しんでいる人たちにとって、何かの役に立つのではないか。僕自身がたいしたことのない達成しかできていないからこそ、書くべきだと思いました。

『ウェブ時代をゆく』に書かなかったこと

 この本に書こうかなと思って、書かなかった話を最後にします。第4章(143ページ)に次のようなくだりがあります。
〈ロールモデル思考法はそんな私のやり方のエッセンスをまとめたものだが、これは行動が伴わなければ何の価値も生まない実学である。本章を終えるにあたって、行動という観点から三つのアドバイスを送りたい。(中略) 第二に、「時間の使い方の優先順位」を変えるにはまず「やめることを先に決める」ことである。それも自分にとってかなり重要な何かを「やめること」が大切だ。お正月の「今年の抱負」が大抵は実現できないのは「やめること」を決めずに、ただでも忙しい日常に「やること」を足そうとするからである。時間は有限なのだ。精神論だけで新しいことはできない。〉

 何をやめたので『ウェブ進化論』『ウェブ時代をゆく』が書けたのか。6年前に、「自分より年上の人に会わない」と決めました。若い人と付き合うことにし、それも真剣に付き合おうと思った。CNETで「英語で読むITトレンド」というブログ連載を始め、日本の若い人たちと会う時間を作るようにしました。そのためには時間を捻出しなくちゃいけない。だから、それとひきかえに、自分より年上の人とは、会わないことにしました。もう少し正確に言うと、「お金をたくさんくれる人以外とは会わない」。

 これは、本業で新しい仕事をいっさい取らないということを意味していて、僕のコンサルティング事業は縮小均衡への道へと向かうことになりました(笑)。でもそうすると、営業をしないですむから、時間が浮きます。
 付随して意外な発見をしました。ものを書くときに、仕事につなげようということを考える必要がなくなったのです。もともと僕の場合、ものを書き始めた理由は、コンサルティングの仕事にプラスになるからでした。90年代に自分が書いたものには、すべて実は罠がしかけてあった。「こういうことを書けば、こういう会社のこういう人から電話がかかってくるだろう」というような罠です。ITの大きな会社の人が目を留めてくれるのでは、と思い、文章とお金を結びつけようとしていた。厳しい言い方をすれば、邪(よこしま)な文章です。でも、営業をしない、新しい仕事を取らないと決めたら、そういうことを書く必要がない。そうすると、いい文章が書けるようになったのです。本を書くことを仕事と結びつけようとすることからの「解脱」ですね。

 『ウェブ進化論』がベストセラーになってからは、これまでお会いしたことのないようないろんな人から「会いたい」という話がきましたが、僕は原則として「年上の人とは会わない」と決めているから、たとえ大臣がシリコンバレーに来ても会いません。政府の委員だって断っています。
 「解脱」した結果、本が売れました(笑)。読者にはわかるんですね。この人の文章に邪なところがないということがちゃんと届く。
 こういうもろもろのことはみな、「やめることを決めた」ことから派生する「新しい展開」だったわけです。

 みなさんも、今日は帰り道で、何かやめることを決めてください。何か大事なことをやめると決めないと、新しいことはできません。この本を「一服の清涼剤」のようにして使っていただくのでも十分なのですが、それを超えて、「生きるための水を飲むような読書」として使うためには、絶対に何かひとつやめることを決めていただかないと。それをやってはじめて、皆さんにとってのこの本は完結するのです。