メッセージ

加藤典洋  ただの読者の意見

加藤典洋 (評論家)

 現在、日本を離れているために今回は誌上参加の形となる。そのことが関係したとも思わないけれども、少数意見を述べる結果となった。結論を先に言えば、私の判断では、今回は受賞作に推せるものがない。以下、その理由を述べてみる。最初の三作は、選考会の様子を聞いたかぎりでは、他の選考委員と、多少の違いはあれ、ほぼ同方向。最後の一作、当選作に対する判断が、これを推す他の選考委員と異なっている。
 まず他の作品から。
 泊兆潮さんの「骨捨て」は、右手をなくした主人公をめぐる話。最後まで読ませる文章力はあるけれども、全体がありがち、という印象を否めない。「広がる戦火に学問の道は閉ざされた」とか「酒と愛液に溺れて」といった乱暴な言葉遣いが、この小説を壊すというより、そこにしっくり収まることで、この小説の成り立ちを示している。途中でキヨというお婆さんの一家が出てくる。その孫娘が、学生時代に、自分のことを小説家だという若者に会ったというなんだか怪しい話になる。そこに作者のパーソナルな投影があるというような、つまらない感想が浮かんだが、その種の「うすっぺらさ」が、この小説にはつきまとっている。
 そもそも、右手をなくすということは、それほど、一生、コンプレックスを引きずらなければならないことなのだろうか。それは、右手をなくさない人間の、見方なのではないだろうか。これはこの小説に対する素朴な疑念である。セルバンテスは、右手の名誉を上げるため、自分は左手をなくした(左手の自由を失った、というので、腕がないかどうかは知らないが)、と軽口をたたいたが、右手をなくした人は、そこからまた、新たに自分と世界の関係を考え、作り上げていくのではないだろうか。そしてそれが文学の力にも関わるのではないだろうか。そう私は思う。
 尾賀京作さんの「さよなら、お助けマン」は、これも最後まで読むと、よくできた小説だが、出発点が「よくできた小説を書いてみよう」ということだとわかる。そういう意図に立って、「よくできた小説を書いてみた」。それだけだというところが、決定的に弱い。そこでは、感動が「よくできた小説を読んだ」以上には行かない。それは、小説にとって、悲しいことである。「よくできた小説」であるかどうか。そこのところを超えることが、小説を書くという経験なのだろうと思う。
 たとえば、視点人物がコロコロと変わる。そこに何のためらいもない。書き手が、神様の位置に立っていて、一人一人に公平に対することができる。それは、最初から、この小説の作中人物が、演劇で言うと、俳優になっていて、演出家とのヒエラルキーが、確立しているということである。これでは、その枠を破る感動は、出てこない。でも、もう少し、人生というのは、わけのわからないものなのではないだろうか。
 古田莉都さんの「降着円盤」には、不要な細部が多すぎる。トモさんとのやりとり、サユリさん、中林のつながり、それぞれが冗長で、また、冗長であることに、意味がないと、感じられる。つまり、作者が書きたいように書いているわけで、全体が、低いなだらかな丘のよう。どこかに深い自分への安心があって、その安心の上にこの世界が立っている。でも安心している作者は、そのことを知らない。そのあたりが、この作品の最大の弱みである。
 不登校生の琴子のイメージも紋切り型。山田への変名の電話も不自然。こんな電話をしていたら、相手に見破られるのでは、と主人公が思うのが当然なので、そのことは、そのことが最後、山田に見破られていた、という設定にすればクリアできるという問題ではないだろう。そういうことに無頓着なところが、この作者の安心している所以で、それは、主人公と作者が、一対一で向かい合っていない、そういう初歩的な欠落から生じているのだろう、と思う。
 ただ、最後の一行、「話が通じて、もうすぐ山田がやってくる」は、よかった。ここで、おっ、となる。それで少し救われる。でも、ここがよいだけでは、やはり推せない。
 さて、最後の当選作、今村夏子さんの「あたらしい娘」だが、この作品には、私もある種の迫力を感じた。それは、交差点のまんなかまで出てしまって、戻ることも先に行くこともできなくなった車の、そこまで出てきてしまった迫力のようなものである。右からも左からもクラクションが聞こえ、みるみる交通が渋滞していく。しかし、どうにも交差点の真ん中で車は動かず。そういう迫力。しかし、小説というものは、もう少し、書き手が書くことの身体を柔らかくしないと、描けないのではないだろうか。これは、小説書きではないが、長年小説を読んできた者の感想である。
 ここには、思いこみの世界の中にいる若い女性がいて、彼女から見える世界が描かれているが、むろん作者は、主人公ではない。その場合、作者がこの主人公と「よい関係」をもつことは、小説にとって決定的に大切なことだという気がする。でも、そういうことをこの作者は、気にしていない。この小説からは、そう感じられる。この人の小説を書くという姿勢に、何かとても基本的なものが激しく欠けている。この小説はその欠如を力にして、独特の迫力を生んでいる。でも、作者がそのことに気づいていない、気づいているとしても、それでよしとしているのでは、この後、この人は、その力量と可能性に見合うよい小説を書く小説家にはならないのではないか。そんな深い偏見と後ろ向きの感想を、私は持ったことになるかと思う。
 したがって、私の疑問は、主人公にではなく、そういう主人公の小説を書く作者に向かう。なぜ、女の子がちょっとした勘違いをしたからといって、子供を死産した継母がおかしくならなければならないのか。また、兄が不良にならなければならないのか。彼女が―たとえ烏のせいだとしても―幻聴の症状を示し、それに温厚らしい父が、また、教師が、何の踏み込んだ接近も試みないのも、不思議ではないのだろうか。主人公がそのことを何ら不思議に思わないことは、よくわかる。それはそれでいい。しかし、作者は、これをおかしいと思わなければならないのではないか。そうでなければ、作者もまた、この主人公のように「思いこみ」の人だとなってしまうのではないか。私が感じるのは、小説の一般読者がもつだろう常識的な、この小説の世界の成立ちに関する疑問である。
 小説は、こういう疑問を与えてはいけない。ことに、こういう「思いこみ」型の小説(?)は、堅固でなければならず、こういう疑問を与えたら終りだ、くらいに私は思う。この作者にも、そう思ってもらいたい。小説を書く人は、自分の中に、どこにでもいる、ふつうの、ただの小説の読者をもっていないといけない。なぜならそれがすべてのはじまりだからだ。