本書への反響
一昨年に叔父が亡くなり、昨年は祖母が、今年に入って祖父が亡くなった。
たとえば叔父が駅前でかならずお土産に買ってきた偽ナボナのような菓子の味や、祖母がずっと使っていた『りぼん』の付録の一条ゆかりの缶ケースや、祖父が私の子に買い与えた変な声で鳴くウサギの玩具の手触りが、鮮明に頭をよぎることがある。
それらは無意味で瑣末でどうでもいい、人前でも歴史の上でも今後も語られることはない。語られなければそれらは存在しないのと同じことであり、当たり前にそこにあったものが、知らないうちに忘れられている。人がひとり生きて死ぬということの途方もなさに、私は幾度でも呆然とする。
同じように私、という存在について考えるとき、「存在」とは確かさを導くための言葉なのに、蓋をあけてみると「存在」を構成する要素があまりに不確かで愕然とする。
私を構成する要素とは、そのときどきの揺れうごく感情であり、触れた温かさの記憶である。それは目に見えず、手にとることもできない。私は私がここに存在するということを、曖昧でおぼろげな指でしかなぞることができない。
著者は済州島にルーツを持つ、在日コリアンである自分の家族のことを書こうとして、長いことうまくいかずに逡巡する。メインテーマである家族への聞き取りのみならず、「どうすれば家(チベ)の歴史が書けるのか」という逡巡の過程も見せながら、やがて自分なりの書き方を見つける。この開示された過程がめっぽう面白い。
記憶によって書くことが可能になる歴史がある、と私は信じている。
(「おわりに」297ページ)
という終盤の一行は鮮烈だった。
事実と回想は別個のものである。記憶はときに個人の物語になってしまう。
しかし、そこから導きだされるものもあると、著者はこの本で明らかにした。その場で語られないことや、その思い出し方が示す「歴史」があるかもしれない、という気づきは、私のいなくなった家族や自分の存在を考えるときの、あのあてのなさに意味を与えた。
この本に書かれた家(チベ)の歴史は私のものではないし、共通点もない。なのに、私はここに書かれた家族を、自分の家族と同じような近しさで読んだ。そして同時にまだ語られていない数多の家族と、数多の記憶のことを思った。この本をきっかけに、さまざまな家の記憶が意味を持ち、語られはじめるかもしれない。それもまた家の歴史となる。一冊の本の意味とは、その連なりのなかに生まれるものでもある。