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1942年6月、ミッドウェー海戦 日米戦死者数 3418名 この数字が、一人ひとりの名前で出来ているのだと知る――。

記録 ミッドウェー海戦 澤地久枝 Hisae Sawachi

ミッドウェー海戦。それは、太平洋戦争の決定的転換点となり、そして大本営がはじめて隠した敗戦だった。
「日本の勝利」とされた陰で、どのような個人が生き、戦ったのか──。

7年もの歳月をかけて日米戦死者3418人を突き止め、彼らと遺族の声から一人ひとりの姿を拾い上げる。
全員の没年齢、出身地、階級などを記した戦死者名簿とその詳細な統計を付し、戦闘経過を史料から跡付ける。

前例のないその仕事の功績によって菊池寛賞を受賞した、執念の記録。

記録 ミッドウェー海戦 澤地久枝 Hisae Sawachi

記録 ミッドウェー海戦 澤地久枝 Hisae Sawachi

読者へのメッセージ

澤地久枝

お知らせ

新聞

2023.9.24

読売新聞「どっち派? HONライン倶楽部」にて紹介されました。

新聞

2023.8.10

しんぶん赤旗に著者インタビューが掲載されました。

3418人が「いかに生き、
いかに戦争に出会ったか」。

手紙やインタビューを通じて
戦死者とその家族の声を拾い上げる。

太田志加次

二等機関兵曹

没年29歳2カ月

静岡/高小卒/九志/二男一女の次男

「生後二年ほどで父親死亡。祖母と母とが百姓の日雇をして子供三人を養ったが、親なし子としていじめられた。昭和二年三月奥山高等小学校卒業後、浜名郡篠原村の鈴木建築所に奉公して大工修業。九年一月十日横須賀海兵団に徴集入団す。入団以来母たよが村の鎮守の森神社に往復六キロの道のりを、雨の日も嵐の日も厳寒の日も、一日も休むことなく、人家より離れた神社へ八年間、雨嵐の夜はこもをかぶって真夜中午前一時から二時の間に健康と武運を祈りつづけたけれども、ついに昭和十七年六月五日、東太平洋戦争ミッドウェー海にて戦死したので、母の祈願の綱が切れてしまった。この母は臨済宗方広寺派本山にてマカナイ婦として勤務、昭和二十七年五月十一日死亡」
兄・太田藤市

河本平八郎

二等整備兵

没年23歳3カ月

岡山/小卒/十五徴/農業/二男二女の長男

平八郎の弟も二十年四月十九日フィリピン方面で戦死(二十四歳)。「兄平八郎は学校は小学校卒ですけどなにごとにもよく出来た人でした。公報では南太平洋で戦死、あの頃のこと思うとかなしいです。母は二人のわが子を戦地に送り戦死され、いかにも名誉とはその頃の言葉。こんな小さい島〔飛島〕で男の子二人もなくしてさみしい毎日であったと思います。戦後三十年余り、少しでもいただく金はどれほどの喜びであるよう人々の話のタネにされて、何度となく『金よりも子供が生きていることの方が』と泣いたものでした。その母もなくなり、長いさみしい母の一生を思うとくやまれます」
妹・河本カツエ

竹田繁雄

二等兵曹

没年25歳1カ月

愛媛/高小卒/十志/農業/一男一女の長男

戦死時祖母(80歳)、母、妹一人がいた「昭和十六年二月に夫を病気で失い、翌年六月息子を亡くした母は、当時は他人様の前で泣くことすら許されず、夜になって星空を眺めて泣いていました。祖母と私を養い必死に母は生きて来ました。そして終戦、復員された方、御家族の方に御苦労様でしたと心から我がことのように喜んでいた母ですが、一方では帰ってくる事のない我が息子を思ってか、よく泣く母に変っていました。それまで、こらえにこらえていた涙が一度に溢れたのかもしれません。失った息子の代償に支給される恩給も羨望の的になり、いろいろ苦しい思いをしていました。
昭和二十三年に私が結婚してから、主人が母と私の一本の柱となって支えてくれましたので、それまでの女だけで味わった苦しみは消えてしまいましたが、母は三十七年四月八日に亡くなるまで一日たりとも忘れることはなかったはずです。妹である私ですら、四十年経った今でも、忘れることはできません。
真面目で大変優しい兄でした。十歳の年の差のある私がみじめな思いをしないようにと、乏しいお給料から洋服とか学用品をよく送ってくれました。当時小学生も四年生にはお裁縫を習っていましたが、お裁縫箱からヘラにいたるまで揃えてくれ、そのお裁縫箱はボロになっていますが、持っています。
一年に二度休暇で帰省しても、私を自転車に乗せてよく遊んでくれるとても優しい兄を覚えています。よく母にも言っていました。苦しくても辛抱してね、そのうち佐世保で、みんないっしょに暮そうねと」
妹・竹田ミエ子

伊藤羆一

一等水兵

没年25歳8カ月

愛媛/十二徴/農業/四男四女の七番目(四男)

母クラは羆一の15~16歳頃に死亡。高小卒業後、昭和12年の徴兵まで坑夫として働いていた。長兄と三番目の兄は早く死に、次兄は従軍帰還後に病死。現在は末の妹松恵(大正12年生れ)のみ生存「私は八人兄妹の末子に生れましたが、みんな若くして亡くなり、ひとりぼっちです。身体障害者なので、兄(羆一)が生きて帰ったら私をみてくれるようになっていました。人さまの力添えで十年ほど前に身体障害者二級をもらい、現在月二万五千円を支給され、生活していますが、とても苦しい生活です。兄が生きてさえいれば、こんな生活はしなくてすんだのにと思います。私にはとても優しい兄で、よくかばって可愛がってくれました。人にもよく好かれた兄でした」
妹・伊藤松恵

ジョン・ホール・ベーツ(BATES, John Hall)

海軍三等機関兵曹

没年23歳4カ月

40年4月26日、21歳で入隊/第六雷撃機中隊ホッジス機の射撃手/未婚

私は高校二年の時初めてジョンと知り合いました。彼は三年生でした。ジョンは大変に真面目で静かな、そして優秀な生徒でしたが、孤独な感じの人でした。ですから彼が恥しそうに私をデートに誘ったときは驚いたものです。彼は町はずれの線路ぞいにある大きな農場に住んでいて、たしかお母さんはすでに亡く、叔父さんと住んでいたと思います。当時、ジョンは車を持つ数人の生徒の一人で、彼の運転するピックアップ・トラックからはいつも農場のにおいがしていたものです。
 私達は時折映画に行ったり、シカゴのナイトクラブの新年を祝うパーティに行ったりしました。それは当時としては大変なことだったのです。その時二人は経験もなく、ワインをソーダポップスのようにがぶ飲みしたため酔っ払って気分が悪くなってしまいました。
 高校時代、ジョンに他にデートするような女性がいたかどうか知りませんが、恥しがり屋のジョンのことですから多分いなかったと思います。私のことは本気だったのです。私は彼を好きだし尊敬もしていましたが、それに応えてあげることはできなかったのです。彼のいつもひとりぼっちなところが気の毒だと思っていました。
 最後に会ったのは一九四〇年夏でした。私は大学二年生を終え、シカゴの大きな病院で働いていました。私に会いに来たジョンは再び結婚の話をしました。しかし、その時私はすでに婚約をしており、二、三カ月後に結婚することになっていたのです。それは、なんというか、苦く甘い別れでした。私はジョンのことを長い間、何度も思いだし、もっといろんなことが出来たはずの若者を失ってしまったことに痛恨の念を覚えたものです」
高校時代の恋人・キャサリン・ウィルソン・ベーカーからのコメント

第二部 戦死者と家族の声 より

「歴史を客観的に記録し、あるいは語ることはきわめて困難であり、「絶対的な事実」などは存在し得ないと思った方がいい。しかし、ここに収録した戦死者の全名簿、グラフその他で示した調査結果は、「客観的」といい得るものにもっとも近い内容を示している。」

日本側3056名、アメリカ側362名の戦死者の生年、所属階級、出身地などをあらゆる手をつくして突き止めた、圧巻の名簿。

第四部 戦死者名簿 より

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「グラフや数表は、わたしにとってきわめて苦手なものであったが、わたしの脳裡にはその人数を構成している人々が生きていて、単なる数字ではなくなった。いまではグラフも数表もよく理解できる。苦手と尻ごみなさらずに、どうぞ第五部の資料をじっくり見ていただきたい。」

第五部 死者の数値が示すミッドウェー海戦 より

クリックすると、拡大します

P.572 士官・下士官・兵の戦死
P.573 結婚
P.575 戦死者の年齢
P.586-P.587 日本側戦死者の出身地
P.590-P.591 各艦船・科別戦死数・日本

かつての日本の社会は、個人のいのちの重さなど問題にしなかった。兵役法という強権で軍隊に召集はしても、どこでどのように死んだのかを確認する仕事は、国家の義務ではないようであった。天皇のために生命を捧げ得た名誉、靖国神社に神として祀られるほまれ。それが死者のいのちの重さの代償だったような気がする。いのちは軽かった。

戦後四十年たっても、本質はどれだけ変ったのだろうかと思う。それなら敵として戦かったアメリカ人はどうなのだろうか。そのいのちはどれくらい重いのだろうか。同じ海戦の死者を比べたらなにか答が得られるに違いない―。

思わぬことからテーマは広く深くなっていったが、わたしが突きとめたかった本来の問は、いのちの重さであった。そしてどうにか答に到達した。敵味方ともにまとめ得た資料は無残な痛ましさにみちていて、軽々に比較などはできない気持である。

(あとがきより)

澤地久枝さわち・ひさえ

1930年、東京生まれ。その後、家族と共に満洲に渡る。ノンフィクション作家。1949年中央公論社に入社。在社中に早稲田大学第二文学部を卒業。著書に『妻たちの二・二六事件』『火はわが胸中にあり』『14歳〈フォーティーン〉』『昭和とわたし』など多数。『滄海よ眠れ』『記録ミッドウェー海戦』でミッドウェー海戦を克明に跡づけるとともに、日米の戦死者を掘り起こした功績により菊池寛賞受賞。2008年朝日賞受賞。
調査時の著者写真
調査時の著者写真

目次

第一部

彼らかく生き かく戦えり

第二部

戦死者と家族の声

第三部

戦闘詳報・経過概要(抜粋)

第四部

戦死者名簿

第五部

死者の数値が示すミッドウェー海戦

付録
あとがき
ちくま学芸文庫版あとがき
解説 『記録 ミッドウェー海戦』を想う(戸髙一成)

第91回毎日広告デザイン賞 部門賞(出版・映画・興行・放送部門)受賞

2023年8月15日(終戦の日)付 毎日新聞朝刊
2023年8月15日(終戦の日)付 毎日新聞朝刊
ミッドウェー海戦
澤地久枝
記録

ミッドウェー海戦

ミッドウェー海戦での日米の戦死者3418人を突き止め、手紙やインタビューを通じて彼らと遺族の声を拾い上げた圧巻の記録。調査資料を付す。
解説 戸髙一成

定価:1870円(10%税込み) ISBN:978-4-480-51187-4 発売日:2023/6/12
カバーデザイン: 間村俊一 カバーイラスト:安野光雅

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