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『竹取物語』冒頭を読む(その2)

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●神秘的な誕生──「三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり」

 翁は「三寸ばかりなる人」をどのようにして見つけたのだろうか? 「竹が光っていたから見つけた」とは書いてある。

 あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。
(『精選国語総合 古典編 改訂版』22頁3行目/『国語総合 改訂版』235頁3行目)

 「それを見れば」の「それ」とは何を指しているのか。普通に考えれば「筒の中」であろう。では翁はどのようにして筒の中を見ることができたのか。竹を切ったのか、それとも筒の中は透けて見えたのか。そんなことはどうでもよいではないか、翁が「三寸ばかりなる人」を見つけたことが重要なのだ、といった考えもあるだろう。

 生徒たちに、翁はどのようにして「三寸ばかりなる人」を見ることができたのかを聞いてみると、ほとんどの生徒は翁が竹を切って筒の中を見たと答える。そんなことはわかりきってる、何を聞いているのだろうと不思議そうに見返す者もいる。

 しかし、翁が竹を切ったという記述はどこにもない。もちろん、切らなかったとも書いてないのだから、竹を切ったことを否定する根拠もない。ただ、竹を切ったと考えたとき、「三寸ばかりなる人」を傷つけることなく、よくうまく切れたものだと私は感心してしまう。そんなことは物語のお約束で、こだわるようなところではない、といわれるかも知れない。

 『桃太郎』では、おじいさんとおばあさんは桃を切ろうとはするが、切ってはいない。桃はひとりでに割れるのである。もちろん『桃太郎』はずっと後代の話であり、単純に比較できないかもしれない。ここでこだわりたいのは、『竹取物語』では、翁が竹を切ったとは書かれていないということである。

 こういう些細なところにもこだわって読んでみたいと私は思う。一語一文の表現にこだわることなく、さらっと読み流してきたところにこれまでの古典教育の弱さがあると思うからである。

 読んでみたところで、切ったとも透けて見えたとも書いてないのだから、どちらとも決め手がないではないか。いやそうではない。何も考えず、切ったと読んでいるよりも、それが書かれていないことに気が付くことが重要なのである。どうしてそのことを書かなかったのだろうか、この表現からわかることは何なのか、そういうことを考えていくことが作品のよみを深めていく。

 藤井貞和(ふじい・さだかず)氏は、この箇所について次のように述べている。

 筒の中が光っている。その段階ではかぐや姫はまだ見えない。まぶしすぎて目がくらんでいる状態だ、と幻想してもいい。目をこらしてみると、光の中にかぐや姫がだんだん見えてくる。筒がすきとおるように光とともにかぐや姫は出てきた。神秘な誕生だ。理屈にあわない神秘な存在の出現のしかたを『竹取物語』はここに表現しているのだ、と見られる。
(藤井貞和「かぐや姫──竹取物語主人公の誕生」『国文学』昭和60年7月号)

 藤井氏の読みを私も支持する。翁が竹を切ったのではなく、筒の中が透けて見えたことで「三寸ばかりなる人」を見つけたのである。そのような不思議な誕生のしかた(発見のされ方)を書かれていないところに読まなくてはいけないと考える。

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