文章に即して古典を読む
- 『竹取物語』冒頭を読む(その1)
(筑摩書房『精選国語総合 古典編 改訂版』p.22/『国語総合 改訂版』p.235) - 『竹取物語』冒頭を読む(その2)
(筑摩書房『精選国語総合 古典編 改訂版』p.22/『国語総合 改訂版』p.235) - 『徒然草』「丹波に出雲といふ所あり」(二百三十六段)
(筑摩書房『精選国語総合 古典編 改訂版』p.52/『国語総合 改訂版』p.260) - 『土佐日記』「男もすなる」(冒頭)
(筑摩書房『精選国語総合 古典編 改訂版』p.37/『国語総合 改訂版』p.249) - 「熟田津に……」の歌を読む
(筑摩書房『精選古典 古文編』p.90/『古典』p.54) - 『伊勢物語』「筒井筒」(第二十三段)を読む
(筑摩書房『精選国語総合 古典編 改訂版』p.34/『国語総合 改訂版』p.245)
『徒然草』「丹波に出雲といふ所あり」(二百三十六段)
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●兼好は聖海上人の愚かさを笑ったのか?
『徒然草』「丹波に出雲といふ所あり」(第二百三十六段)は、次のような解釈がなされている。
覚めた人である兼好にとって、愚者の過信は笑うべきことであった。子供の悪戯の結果を、何か特別の神意ででもあるかのように受け取った聖海上人は、そこで笑いとばされる。上人の言葉に感心する一行の姿も同時に笑いの対象として、はなはだユーモラスに描かれており、それだけかえって兼好の批判は痛烈である。(『新編日本古典文学全集』44 小学館 1995年)
丹波の出雲神社に参詣した聖海が、子供の悪戯とも知らず、変わった立ち方をした狛犬に感動したという滑稽談。(『新日本古典文学大系39 方丈記 徒然草』岩波書店 1989年)
聖海上人の失敗を笑うという見方が、ここには共通している。しかし、ここで兼好は、聖海上人の愚かさを笑っているのだろうか?
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