──「渡り」のこと、『考える人』でご連載中ですね。
沖縄で標識をつけたベニアジサシがオーストラリアのグレートバリアリーフで見つかったそうです。キョクアジサシは、もっとすごいの。南極と北極を行ったり来たりするそうですから。
最近の研究では、スズメやヒヨドリみたいな鳥のなかにさえあちこち移動するものがいることがわかってきました。つまり、一箇所に留まる個体と、どうしても渡ってしまう個体が鳥にもいるし、人にもいる。
私は定住して一カ所で生き抜く、ということに強い憧れをもつ人間ですが、そのことは堅実で実直な力強さを生む一方、欲得とか執着、所有したい気持ちも強くするような気もします。もともと戦というのはここは自分の土地だ、縄張りだと主張し、守るために始まったのでしょうから。
渡る、移動する、旅をする、という意識をもうちょっと深く考え進めると、今、世界に沈殿している澱のようなものを解消するヒントのようなものが見つかるような気がしてなりません。
もちろん、定着して生きていくことのすばらしさはよくわかっているつもりですが、それと同じくらい、そこからネガティヴなものも発生してしまう気がするのです。たとえば、宗教者を標榜する人たちが謙虚さを声高にうたいながら、その物言いのなかにたいへんな傲慢さを感じることにも似た…。なにかを声高に語った端から、それと同じ絶対値で影の部分を発生させてしまう。
なぜなら、人はどこかで全体性を恢復しようとするものだから。どこか一箇所だけ自分の中で不自然に強調しようとすると、必ず、無意識のうちに別のどこかが突出してしまう。だから自分の中で無理が生じるようなことは所詮どうしたって「無理」なのでしょう、きっと。それはどうしようもないこと、と思っていましたが、でも、本当にそうでしょうか。何か、方法があるような気もするんです。
「渡る」ことにもデメリットはあります。やっばり大変だし、寂しい。命がけですから。それを否定することなく、そう感じる自分を見つめながら自分の「全体」の中へ融かし込んでいければいいと思っています。
──頭の中の観念に偏らず、身体も含めた全体性を恢復しようという試みは、
『水辺にて』に込められたテーマのひとつですね。
言葉を大事にしてきたつもりですが、その弊害みたいなものも、さきほどの「宗教者を標榜する人たち」の例ではないけれど、自覚していて(笑)。だから、体を動かして見えてくるものにこだわりたかった。それこそカヤックを動かして、その先に見えてくる風景、頭で考えたものでなく、向こうからやってくるものが、自分の五感にどうリフレクトしてゆくか、その時にぶつかるなにか、偶然の副産物みたいなものを描こう、と。
でもやっぱり生来の業でしょうか。作為的なことをせず書いていたつもりでも、どこか起承転結みたいになってしまう(笑)。
──今までのエッセイとは少し違う書き方をされたということでしょうか。それは、やってみていかがでしたか。
少し覚悟が要りました。自分の作品には書き手としての〈私〉を出さず、黒子に徹するべき、と考えてきましたから。つまり、読者が作品と純粋に出会うためには、私の顔や性格や私生活などが浮かんで作品世界の色づけをしたり、邪魔をしてはいけない、と。
でも、今回のように個人の経験を通してしか書けない、という場合は、いさぎよく覚悟をきめて、自分をひとつの媒体、ひとつの素材にしてみよう、と。そういう意味では、私自身にとってもエポックになる作品でした。
ウェブでの連載は初めてだったのですが、不思議な感覚でした。それはどこがどうと、うまく言えないものですが。本にするときに違和感のある箇所は削り、それからまた新しい章を付け加えたりしました。
──それは、ウェブからの読者も楽しみですね。ありがとうございました。