筑摩書房

1972年4月7日 渋谷 山手教会講演 「谷川雁論」 撮影 吉田 純

1972年4月7日 渋谷 山手教会講演 「谷川雁論」 撮影 吉田 純

吉本隆明〈未収録〉講演集全12巻

刊行予定

全巻購入特典

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孤独が自問する。革命とは何か。(「マチウ書試論」)

    基本仕様

  • ■ 造本・体裁:四六判・上製・カバー装・平均300頁・13.5Q・1段組・全巻月報付き(8頁)
  • ■ 装丁:南伸坊 ■ 装画:山本容子 ■ 口絵写真:吉田純

    この講演集の特色

  • ■ 把握された限りの<未収録>の講演すべてを収録。
  • ■ 今回、新たに発掘された音源から起こした未発表の講演8編収録。
  • ■ 40年間、講演を追い続けた編集者によるテーマ別編集。
  • ■ 月報には、長年著者を追い続けてきた人たちを中心に吉本像を執筆。
  • ■ 「吉本隆明 全講演リスト」を、第1巻に別刷で挿入。

「吉本隆明全公演リスト」訂正・追加表

吉本隆明〈未収録〉講演集

孤独が自問する。革命とは何か。(「マチウ書試論」)

日本的なものとはなにか

日本的なものとはなにか
  • 日本的なものとはなにか(’93・10 )
    古い日本語のむずかしさ(’84・12 )
    初期歌謡(’72・7 )
    日本の詩歌の始まりについて(’98・9 )
  • 南方的要素(’78・10 )
    南島論序説(’88・12 )
  • 「遠野物語」の意味(’90・8 )
    総論 柳田民俗学(’92・9 )

お詫びと訂正

心と生命について

心と生命について
  • 物語について(’94・6)
    心について(’94・9)
    生命について(’94・12 )
    ヘーゲルについて(’95・4 )
    フーコーについて(’95・7 )
  • 甦えるヴェイユ①(’92・12 )
    甦えるヴェイユ②(’92・12 )
    良寛について(’88・11 )
    日本人の死生観Ⅰ(’86・11 )
    日本人の死生観Ⅱ(’86・11 )
  • 子供の哲学(’88・11 )

農業のゆくえ

農業のゆくえ
  • 人間の死・自然の死・農業の死
  • 「農村」の終焉(’87・11 )
    日本農業論(’89・7 )
    農業からみた現在(’91・11 )
  • 安藤昌益の「直耕」について(’98・9 )

日本経済を考える

日本経済を考える
  • 〈戦後〉経済の思想的批判(’74・6 )
    時代はどう変わろうとしているのか(’86・7 )
    現代を読む PART2(’93・12 )
    日本経済を考える(’88・3 )
    高次産業社会の構図(’89・10 ) 近代国家の枠を超える力(’94・3 )
  • 「現在」ということ(’85・3 )
    日本社会の現在(’90・11 )
    現在をどう生きるか(’95・9 )
    現在(いま)と言う時代=状況論(’95・6 )
  • 休暇が取れない日本(’03・11 )

イメージ論・都市論

イメージ論・都市論
  • マス・イメージをめぐって(’85・7 )
    イメージ論(’86・5 )
    ハイ・イメージを語る(’87・5 )
    ハイ・イメージ論と世界認識(’93・9 )
  • 普遍映像論(’88・6 )
    イメージとしての都市(’89・11 ) 映像都市の生と死(’91・7 )
  • つくば、都市への課題(’90・5 )
    都市論としての福岡(’90・9 )
    わが月島(’92・10 )
    都市美の伝統と現在(’92・5 )
    私の京都観(’93・9 )

国家と宗教のあいだ

国家と宗教のあいだ
  • 廣松渉の国家論・唯物史観(’95・6 )
    25年目の全共闘論(’95・1 )
    ナショナリズム―国家論(’67・10 )
    「ナショナリズム」について(’65・11 )
    現実存在としての我々(’68・11 )
  • 社会現象としての宗教(’93・3 )
    わが情況的オウム論(’95・7 )
  • 消費が問いかけるもの(’95・2 )
    いま、どんな時代なのか(’84・4 )
    普通に生きること(’03・9 )
    現代社会と青年(’91・11 )

情況の根源から

情況の根源から
  • 現代における政治過程にとってその自立とは何か(’68・10 )
    共同観念の〈文化〉と創造(’70・5 )
    思想的課題としての情況(’71・6 )
    根柢への出立に向けて(’72・1 )
    情況の根源から(’76・6 )
  • 思想の自立とは何か(’67・11 )
    国家・共同体の原理的位相(’71・12 )
    究極の左翼性とは何か(’87・9 )
  • 『試行』 の立場(’87・10 )
    「知」の流通(’95・2 )

物語と人称のドラマ ――作家論・作品論〈戦前編〉

物語と人称のドラマ ――作家論・作品論〈戦前編〉
  • 倫理と自然の中の透谷(’94・6 )
    透谷と近代(’94・11 )
    鷗外と東京(’92・11 )
    太宰治と森鷗外(’75・7 )
    国男と花袋(’90・9 )
    『遠野物語』と『蒲団』の接点(’92・11 )
    私の茂吉観(’93・5 )
    芥川龍之介 芥川における下町(’94・11 )
  • 岡本かの子(’89・3 )
    室生犀星(’88・3 )
    中原中也・立原道造(’96・7 )
    太宰治論(’88・5 )
    感想ひとつふたつ(’88・5 )

物語とメタファー ――作家論・作品論〈戦後編〉

物語とメタファー ――作家論・作品論〈戦後編〉
  • 芥川・太宰・三島の「自殺の運命」(’86・12 )
    『死霊』 についてⅠ(’76・5 )
    『死霊』 についてⅡ(’76・5 )
    『死霊』 についてⅢ(’76・5 )
  • 荒地派について(’88・8 )
    物語性の中のメタファー(’93・4 )
    中上健次私論(’93・6 )
    『神の仕事場』をめぐって(’95・6 )
    一行の物語と普遍的メタファー(’87・10 )
    詩について(’66・7 )
    個の想像力と世界への架橋(’82・11 )
  • 文学の戦後と現在(’95・7 )
    作品に見る女性像の変遷(’97・7 )

詩はどこまできたか

詩はどこまできたか
  • 孤立の技法(’09・6 )
    詩はどこまできたか(’95・4 )
  • 若い現代詩(’82・9 )
    〈若い現代詩〉について(’82・12 )
    現代詩の思想(’79・3)
    詩のゆくえ(’72・3 )
  • 過去の詩・現在の詩(’80・3 )
    戦後詩の体験(’76・10 )
    明治大正の詩(’57・? )
  • 詩的な喩の問題(’90・10 )
    戦後詩における修辞論(’77・10 )
    芸術と疎外(’64・1 )

芸術表現論

芸術表現論
  • 表現論(’66・5 )
    表現論(続)(’66・7 )
    文学の原型について(’80・8 )
    物語の現象論(’81・11 )
    顔の文学(’94・11 )
  • 文学の現在(’75・10 )
    文学の新しさ(’82・1 )
  • 装幀論(’85・11 )
    舞踏論(’89・2 )
    色材論(’75・11〜12)
    建築のための数学概論(’71・11〜12)

芸術言語論

芸術言語論
  • 芸術言語論(’08・7 )
  • 戦後文学の発生(’80・11 )
    現代文学の条件(’81・7 )
    文学はいま(’87・9 )
    現代文学のゆくえ(’92・10 )
  • 文芸雑感(’85・9 )
    「かっこいい」ということ(’86・5 )
    92文芸のイメージ(’92・11 )
    新・書物の解体学(’92・11 )
    「芸術言語論2」メモ