未完の作品
「大黒屋光太夫」と題する長篇小説が単行本として出版された。私が一年一カ月にわたって新聞に連載したものである。
その広告が、新聞、雑誌にのったが、その広告文に「書き終えるまで死にたくない、と何度も思った」という文章が、私のこの小説に対する思いとして記されている。
作者である私がこの作品に力のかぎりを注いだことを、この文章で読者に伝えようと意図したことはあきらかで、素人である私にはわからないが、広告文としては或る程度の効果があるのだろう。
連載が終了直後、版元である新聞社の文芸記者のインタビューを受けた時、たしかに私はこの言葉を口にした。自分の思うままのことを語ったのだが、出版にあたって担当の編集者から、この言葉を広告文に入れたいがどうか、という申出を受けた。
きざな言葉だ、とひるみはしたものの、まちがいなく私が口にしたことであり、それに責任を持つべきであると考え、応諾した。
私は、その小説を書いている間、それこそ何度も書き終えるまでは死にたくない、と思った。それだけに最後の一文字を書き終えた時には、深い安堵をおぼえた。
しかし、私がこのように思ったのはこの一作だけではない。過去に、ことに長い小説を書いている時、死なずに完結に持ってゆきたいと願ったことが数多くあり、その折々の記憶は鮮明に頭に残っている。
これは私にかぎったことではなく、小説家すべてに共通しているものであるはずだ。小説家は死ぬと、ぽつんと未完の作品が一つ残る。作者は、当然、完結を夢みて筆を進めるが、死とともに断たれ、それは永遠に未完のままに残される。私も、それを避けようとして、何度も死にたくないと思いながら筆を進めたのだ。
二十年ほど前、夜、突然のように新聞社の文化部長が二人の部員とともに拙宅に訪れてきた。
何事かと思って応接室で向い合って座ると、部長が、なにか長篇小説で書きたい素材をお持ちですか、と言う。妙な質問だと思いながらも、何度か胃カメラによる検診を受けた私は、その奇異な器具を創った人の存在に関心をいだき、調べてみると、意外にも東大医学部の助手とオリンパス光学の技師二名であるのを知った。そのことを本格的に調べて、いつか小説に書いてみたいと思っている、と答えた。
「実は……」
と言って、部長は来訪の理由を説明した。
立原正秋氏が、現在、新聞に連載小説を書いていて、好評なのだが、突然、癌が発見され入院した。氏につづく執筆予定者は丹羽文雄氏なので、丹羽氏のもとにおもむくと、高齢でそのような急な仕事はできぬと言われた。さらに丹羽氏は、私が書いた随筆で、今年一杯はゆったりと短篇小説を書くことに専念する、と書いてあったので、私の家に行って頼んでみたらどうか、と言われたという。
唐突な申出であるので部長にただしてみると、立原氏は十日後までの分しか書いていない、と言った。
これまで私は、十分な準備をととのえてからでないと書かぬことを信条としてきたし、そのような短期間に調査をし、書くことなど不可能であった。その旨答えると、部長は、ともかく一晩再考して欲しい、と言って辞していった。
部長はそれをすぐに丹羽氏につたえたらしく、氏から電話がかかってきた。氏は、ある作家が緊急入院し、わずか五日間しか余裕がなかったが、引受けたと前置きして、
「作家は生身の人間で、だれでもそのように病気にとりつかれて筆をおかざるを得ないものなのだ。君でもそうだよ。立原君に心安らかに治療を受けてもらうため引受けてやったらどうか」
と、しんみりした口調で言った。
私は、その一言で執筆を決意した。立原氏は私の一歳上で、いわば同世代の作家である。雑誌こそちがえ共に同人雑誌に苦労して小説を書いていた身で、戦友意識もある。丹羽氏の言うように、後顧の憂いなく治療を受けてもらうべきだ、と思ったのである。
翌朝から私は夜おそくまで調査に走りまわり、ようやく目安もついて執筆に漕ぎつけ、筆を進めることができた。入院している立原氏からは、私が引受けてくれたことを感謝している旨が伝えられた。
それからどれほど経った頃だろうか。立原氏は逝き、私は鎌倉で営まれた葬儀に参列した。
私は、祭壇の氏の遺影を見つめながら、小説を未完で終えざるを得なかった無念を思った。小説家の避けることのできない宿命であり、それは私自身のことでもある。
いつかは私も、未完の作品をぽつんと残してこの世を去るにちがいない。
(吉村昭『回り灯籠』より)
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吉村 昭
ヨシムラ アキラ
(著者近影:坂本真典)