ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第五回(1/3)
第一回 『舞姫』のモチーフについて
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭
第五回 『舞姫』の政治的側面
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天方伯は山県有朋だ!

 『舞姫』は、雑誌『国民之友』(第六十九号付録 一九八〇年)に発表されましたが、大正四(一九一五)年に至るまで数多くの手が加えられています。その中で、最も注目すべきものは明治二十五(一八九二)年『美奈和集』所収にあたって次の部分が削除されたことです。これは冒頭部分から数えて第二段の「これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。」の次、つまり第三段にあたる部分です。

 我がかへる故郷は外交のいとぐち乱れて一行の主たる天方伯も国事に心を痛めたまふことの一かたならぬが色に出でゝ見ゆる程なれば随行員となりて帰るわが身にさへ心苦しきこと多くて筆の走りを留めやする又た海外にてゆくりなく伯に受けたる信用のなみなみならず深きに学識、才幹人に勝れたりと思ふ所もなき身の行末いかにと思ひ煩ひて文つゞる障りとなるにや、否これは別に故あり。

 この部分はアクチュアルで極めて大胆な内容です。『舞姫』の中で唯一、時期が記されているのが、相澤謙吉から来独を知らせる手紙が届く直前の段に記された「明治二十一年の冬は来にけり。」の部分です。なぜこれだけを明確に示したのでしょうか。それはモチーフに関わる問題なのです。

 明治二十一(一八八八)年十月、山県有朋は地方自治制度視察のため訪欧しました。地方自治といっても超保守派の彼のことですから、本来の地方自治ではなく、中央集権の実を上げるための視察でした。帰国は翌二十二(一八八九)年の十月。山県を待っていたのは幕末に幕府が結ばされた不平等条約改正を回る混乱でした。その結果、時の黒田清隆内閣は崩壊し、その後を期待されたのが長州閥の最大の実力者・山県でした。結果的に第一次山県内閣を組織します。ですから、「外交のいとぐち」が乱れて「国事に心を痛めたまふ」のが誰であるかは一目瞭然、おまけに「ヤマガタ」と「アマガタ」は音が極めて類似しており、疑問を差し挟む余地はありません。

 因みに、鴎外がドイツへ留学していたのは、明治十七(一八八四)年から二十一年七月までで、鴎外と山県がドイツで出会うことはありませんでした。山県の訪欧に際しては、ドイツ語が出来るというので、その随行医官として賀古鶴所(かこつるど)が選ばれました。賀古は鴎外とは東大医学部の同期で、鴎外の終生の親友であり、鴎外の遺言を代筆した人物です。遺言にある通り、唯一の心を許した心友でした。その関係から、賀古が山県と鴎外を結び付けたのです。

相澤謙吉のモデル・賀古鶴所

 賀古は、鴎外の性的自叙伝でもある『ヰタ・セクスアリス』にも古賀として登場します。『ヰタ・セクスアリス』に描かれた古賀は硬派の豪傑で、たまたま寄宿舎でこの人物と相部屋となった主人公である金井湛(鴎外)は、もし襲われたら抵抗しようというので、懐に短刀を忍ばせていたとあります。所が幸いなことにそのようなこともなく、二人は親友となるのです。

 年齢も上で豪傑の賀古は、鴎外の保護者のような役割を果たすようになります。私はこの二人の間には同性愛的な感情が働いていたのではないかと思います。

 そもそも鴎外が陸軍に入るに際して中心となって働いたのは賀古だったのです。鴎外はもともと陸軍に入る気はありませんでした。大学でよい成績を得て、文部省からドイツ留学をしたいと考えていました。帰国して東大医学部の教授になるというエリートコースのシナリオを鴎外は考えていたでしょう。しかし、同期の二十八人中八位の鴎外の成績ではそれは無理でした。八方手を尽くして可能性を探ったのですが、だめでした。そのときに助け舟を出してくれたのが賀古だったのです。賀古は陸軍の依託学生(今風に言えば奨学生。陸軍から奨学金を支給され、卒業すると陸軍に入る)で、当時陸軍が始めたばかりの独逸留学制度について鴎外に知らせたのです。

 鴎外はなぜドイツ留学にこだわったのでしょうか。それは津和野の藩校・養老館の学則「本を探りて隠れたるを顕し」という本源遡行の精神、つまり医学の本家本元を極めたいという年来の希望があったからでしょう。鴎外には陸軍入りに際して迷いもありましたが、結局、賀古のアドバイスに従って陸軍に入り、念願のドイツ留学を果たしたのです。『舞姫』の相澤と豊太郎の関係はこれを作品中に形象化したものでしょう。

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