ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第六回(1/5)
第一回 『舞姫』のモチーフについて
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭
第六回 結末
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親友・相澤謙吉の来独

 エリスとの充実した生活も相澤の出現によって崩壊して行きます。相澤は豊太郎と大学の同期で親友の間柄です。相澤は日本で豊太郎の免官を知った時点で素早く動き、親友の危機を救います。彼は豪放磊落な人柄で、常に豊太郎を庇護して来ました。相澤は彼の兄貴分なのです。これは明らかに賀古と鴎外の関係を反映しています。

 平和な生活が崩壊する端緒となったのは、相澤からの手紙でした。日本にいるとばかり思っていた相澤が、当時の政界の大立者・天方大臣の秘書官としてベルリンに来ていたのです。相澤の手紙の目的は何か。それは次の部分に集約されています。

伯の汝を見まほしとのたまふに、疾く来よ。汝が名誉を回復するもこのときにあるべきぞ。

 要するに天方伯爵の力を借りてお前を出世コースに戻してやるというのです。この時の豊太郎の反応は「茫然たる面もち」でした。「茫然」とは、気が抜けてぼんやりするという意味です。これはエリスから見てそのように見えたのです。将来への展望は持てないものの、現在の特派員としての仕事に今までにない充実感を覚え、エリスとの生活もまんざらでもないと思っていた彼に、突然、予想外のエリート路線への復帰の話が転がり込んで来たのです。親友が持って来た話こそ、豊太郎が待ち焦がれていたものです。しかし、わずかな期間とはいえ、今まで築いて来た生活を切り捨てるには決断が必要です。この二つの間で彼の心が揺れ動いたのです。でも、これは一瞬でした。彼は相澤の誘いに応じて即座に出掛ける決意をしたのです。この時点でエリスの運命は決したといえるでしょう。因みにこの部分は、全くのフィクションです。前述の如く山県(=天方伯)が渡欧した時、鴎外は日本に帰っており、ベルリンにはいませんでした。

エリスの献身

 豊太郎は天方大臣のご機嫌をそこねてはというので急いで出掛けようとします。エリスは、大臣にお目にかかる晴れがましい席で「夫」に恥をかかせてはと涙ぐましい献身振りを見せます。悪阻で気分が悪いにも関わらず、立ち上がってワイシャツも一番白いものを選び、このような時のために大事にしまって置いたフロックコートを着せ、ネクタイさえ結んでくれたのです。実に細かい所まで心くばりの出来る、世話女房振りです。

 鴎外の妹・小金井喜美子の『森鴎外の系族』によれば、エリスは小柄で美しい人であったようです。彼女はエリスには会ったことはないと書いていますが、夫の小金井良精がエリス帰国交渉の中心人物であったため、詳細な情報を知り得る立場にありました。喜美子の『鴎外の思い出』の中に次のような記述があります。

 後、兄の部屋の棚の上には、緑の繻子で作った立派なハンケチ入れに、MとRとのモノグラムを金糸で鮮やかに縫取りしたのが置いてありました。それを見たとき、噂にのみ聞いて一目も見なかった、人のよいエリスの面影が私の目に浮かびました。(『鴎外の思い出』岩波文庫)

 喜美子はエリスの帰国に際して「誰も誰も大切に思つて居るお兄い様にさしたる障りもなく済んだのは家内中の喜びでした。」(『森鴎外の系族』小金井喜美子)と感想を記しています。このように家族エゴをむき出しにした喜美子は、このモノグラムに託された思いをどのように感じ取ったのでしょうか。

「かく衣を改めたまふを見れば、なにとなく我が豊太郎の君とは見えず。」
「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見捨てたまはじ。」

 この部分は、女の直感でしょう。豊太郎の改まった服装を見ると、今までごく近い存在であった豊太郎が自分とは別の世界の人間なのだと再認識させられたのです。しかし、エリスの気持ちは定まっています。

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