ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第六回(4/5)

舞姫先生は語る

第一回 『舞姫』のモチーフについて
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭

第六回 結末
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豊太郎の裏切り

 ここで終わればハッピーエンドなのですが、この先、悲劇が待っているのです。これ程の能力を持っている豊太郎を天方大臣が離すはずがないのです。豊太郎の女性関係が気になって相澤に探りを入れたところ解決済みであるとの返事を得て、天方大臣は豊太郎獲得に確信を持つに至りました。直接確かめたところ豊太郎は「承りはべり。」と反射的に返事をしてしまったのです。強きに弱く弱きに強い、官僚体質の豊太郎ですから断れるはずがないのです。感激の再開から時間も経っていないのに。無責任、無節操な人間です。

 返事をしてしまった後で、彼ははたと困るのです。帰ってエリスに何と言おうか。彼には真実を告げねばならぬという責任感も勇気もありません。どうやってこの場を取り繕うか、こればかり考えながら真冬のベルリンの町を歩き回ったのです。しかし、それは無理です。どうせすぐばれる事ですから。公園のベンチで思案に暮れているうちにぐっすりと数時間も寝込んでしまいます。これはどう考えても不自然です。悩んで眠れなくなるのが普通でしょう。しかも気温は氷点下です。折からの雪で、雪だるまのようになった彼は、深夜になってようやく帰宅します。

 夫の帰りを待ちながら、生まれて来る子供のために産衣を縫っていたエリスは泥まみれの幽霊のような夫の姿を見て驚きます。「いかにかしたまひし。御身の姿は。」この問いかけに対して豊太郎は答えませんでした。ようやく家にたどり着いた安心感から気絶してしまったからです。これが豊太郎が最後に見たエリスの正気の姿でした。

 真冬の雪の降りしきる公園で数時間もぐっすり寝込んでいたためか、恐らく肺炎にでもかかったのでしょう。高熱にうなされながら人事不省のまま豊太郎は数週間を過ごす事になりました。その間、連絡の途絶えたのを心配した相澤がアパートを訪ねて真相を知ります。そして、よせばいいのに豊太郎の裏切り行為を告げてしまうのです。この時のエリスの驚きはいかばかりか。あまりのショックに、エリスは発狂してしまうのです。それはそうでしょう。豊太郎はエリスに対して全くそれらしい様子を見せなかったのですから。つまり、だましていたのです。貧乏くじを引いたのは相澤です。豊太郎は人事不省で話すことは出来ません。

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