万葉樵話――万葉こぼれ話

第七回 非正統の万葉歌――巻十六から

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しんしよぢやく」と和歌の本質

 ところで、巻十六に「無心所著歌(心のく所無き歌)」と題された不思議な歌がある。これも物名歌の一種になるが、先の歌とは違い、まったく意味が取れない。「心の著く所無き歌」の「心」は、謎々で「その心は」という時の「心」と同様、意味あるいは脈絡をいう。そこで、「無心所著歌」は、意味の取れない歌になる。

  心の著く所無き歌二首

我妹わぎもひたひふる双六すぐろくことひのうしの倉の上のかさ
(巻十六・三八三八)

我が犢鼻たふさきにするつぶれ石の吉野の山にさがれる
(巻十六・三八三九)

右の歌は、舎人とねりの親王みこおほせてはく、「るはる所なき歌を作る人あらば、たまふにせんぱくをもちてせむ」といふ。時に、おほ舎人とねりへの朝臣あそみ祖父おほぢ、すなはちこの歌を作りて献上たてまつれり。すなはち、つのる所の物と銭二千文とをもちてたまひき。
〈口語訳〉
  意味の通じない歌二首
わたしのいとしい人のひたいに生えている双六すごろくおすの牛の倉の上のかさよ。
わが背の君がふんどしにする丸い石の吉野の山にがぶら下がっている。
右の歌は、舎人親王が、近習の者に命じて「もし脈絡のつかない歌を作る人がいたら、褒美として銭・帛を遣わそう」とおっしゃった。その時に、大舎人阿倍朝臣子祖父がすぐにこの歌を作って献上した。ただちに賞品の物と銭二千文とをお与えになった。

 この二首は物名歌と見てよいが、そこに詠み込まれた事物は、一首目では「額」「双六」「牡牛」「倉」「瘡」、二首目では「犢鼻」「つぶれ石」「氷魚」になろう。

 この二首では、それらの事物を詠み込んで一首を構成してはいるものの、それぞれの事物は一切脈絡をもたず、文字どおりのナンセンスな歌として呈示されている。

 とはいえ、複数の事物を詠み込んで、まったく意味の成り立たない歌を作るためには、相当に高度な技量が必要とされる。そこで舎人親王(六七六~七三五。てん天皇の皇子)は、そうした歌がうまくできたら褒美を与えようと言ったのだろう。作者のへのおおは、伝未詳。

 この左注からも、こうした歌が座興として作られていた事実が確かめられるが、重要なのは、ここから和歌の本質がどこにあるのかが見えて来ることである。

 「無心所著歌(心の著く所無き歌)」は、先に意味のとれない歌と説明したが、より正確には心(意味)が依りかない歌ということだろう。左注の「る所無き歌」も同義。そこで、ここから反対に、歌とは心(意味)の表現を初めから目指すものではなく、心は後から依り憑いて来るものであることが見えてくる。言い換えるなら、心は後から発見されるということでもある。心を心情と見る場合でも、自分の心(心情)が見出だされるのは、契機となる何かに出会うからで、初めからその心が自覚されているわけではない。『源氏物語』で、むらさきのうえが手習いのように古歌を書き付けていて、それが嫉妬の歌ばかりであることに気づき、そこで初めて秘められた自分の心に気づいたという例(「若菜上」)は、そのことをよく示している。歌もまた、もともと、それを詠じていく中で、はじめて歌い手の心(心情)が立ち現れてくるようなものだった。心とことばの出会いであり、それもまた心が依り憑くということだろう。

 ならば、初めから心(意味)をもつことは、必ずしも歌の本質とはいえないことになる。「無心所著歌」の場合、意識的に脈絡の取れない歌を作り出してはいるのだが、それにもかかわらず、こうした「心(意味)」をもたない歌が歌であるのは、五七五七七の音数律に支えられているからだろう。音数律という特別なしるしをもつことで、これらの歌は歌でありえたことになる。

 ならば、歌の本質を支える基本は、まずは音数律にあったことになる。巻十六のこのような歌は、決して正統な歌とは言いがたいが、それゆえにこそ正統とは何であるのかを明らかにする意味をもつ。そのことをここでながめてみた。

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