万葉樵話――万葉こぼれ話

第九回 『万葉集』の和歌にはなぜ敬語があるのか(二)

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きの女郎いらつめおおとものやかもち

 『万葉集』では、男女の贈答歌にも敬語が使用される例が少なくない。そのことは前回にも述べた。その敬語を、きわめて効果的に用いた例があるので、それを最後に紹介しておく。紀女郎と大伴家持の贈答歌である。

 きの女郎いらつめおほともの宿すくやかもちに贈れる歌二首
戯奴わけがため我が手もすまに春の野に抜ける茅花つばなしてえませ
(巻八・一四六〇)
昼は咲き夜は恋ひ合歓ねぶの花君のみ見めや戯奴わけさへに見よ
(巻八・一四六一)
 右は、合歓ねぶの花と茅花つばなとを折りぢて贈れるなり。
〈口語訳〉
  紀女郎が大伴宿禰家持に贈った歌二首
 おまえのために、わが手も休めずに春の野で抜き取った茅花つばなだ。召し上がって、お太りなさいませ。
 昼は咲いて夜は恋いつつ寝る合歓ねむの花を、主人だけ見てよいものか。おまえだって見なさい。
 右は、合歓ねむの花と茅花つばなとを折り取って贈ったものである。
  大伴家持の贈りこたへたる歌二首
 が君に戯奴わけは恋ふらしたばりたる茅花つばなめどいやせに痩す
(巻八・一四六二)
 吾妹子わぎもこかた合歓ねぶは花のみに咲きてけだしくにならじかも
(巻八・一四六三)
〈口語訳〉
  大伴家持が贈り答えた歌二首
 わがご主人に、このやつこめは恋うているらしい。頂戴した茅花つばなを口にしても、ますます痩せてしまうことだ。
 いとしいあなたの形見の合歓ねむは花だけが咲いて、おそらくは実にならないのだろうかなあ。

 紀女郎は、きの鹿ひとの娘で、本名を鹿しかという。本名がわかるのは当時としてはめずらしいが、いかにもこの人にふさわしい。紀氏も古代からの名族である。若い頃にきのおおきみの妻となったが、どこかで離縁になったらしい。家持よりはやや年長なのだろう。当時、家持は青春時代のまっただ中にあり、さまざまな女たちとつきあいをもったが、紀女郎もその一人になる。青年貴公子とかつて人妻であった年上の女との恋だから、それだけでも危ない感じがするが、この二人の関係は、どうやら遊び心を多分に含んだものであったらしい。そのありようが、この贈答歌からも見て取れる。

 ここで注意すべきは、相互の呼称である。紀女郎は家持を「戯奴わけ」と呼び、家持は紀女郎を「君」と呼んでいる。「戯奴」の「戯」は、文字どおり「たわむれ」の意があるから、本体は「奴」にある。これをワケと訓むのは音注(ここでは省略)があるからで、ワケとは、もともと若い衆を意味する。そこに漢字の意味を重ねれば「従僕・奴僕」の意になる。反対に「君」は「御主人様」の意になるから、二人は主人と従僕の主従関係を擬制していたことになる。

 左注によれば、紀女郎の歌は、「合歓ねぶの花」と「茅花つばな」とともに贈られたとある。その一首目は、あきらかに「君=主人」の立場から歌われている。これに対応するのが、家持の一首目だが、ここでは自らを「戯奴=従僕」の立場で応じており、紀女郎を「我が君(わがご主人)」と呼んでいる。紀女郎の一首目では、家持に対して、「してえませ(召し上がってお太りなさいませ)」と敬語を用いているから、主人と従僕の関係を擬制しているにしては、やや不徹底な感も残る。「茅花」は、チガヤの花穂だが、これを食べると太るのかどうかはわからない。ただ、家持はもともと痩身らしく、「頂戴したチガヤを食べてもますます痩せてしまうのは、あなたさまへの恋ゆえでしょうか」と応じている。ここには「たばりたる」と敬語が用いられている。

 紀女郎の二首目は、「合歓ねぶの花」を歌うが、ここには敬語が用いられず、主人と従僕の関係がそのまま現れている。一方、家持の二首目は、そうした関係を恋人同士のそれに引き戻している。まず、紀女郎を「吾妹子わぎもこ」と呼び変えている。「吾妹子」は、恋人への呼称である。それは「合歓の花」が共寝を誘う意味をもつからである。「にならじかも(おそらくは実にならないのだろうかなあ)」は、恋の成就への危惧の表明と見てよいが、もとより真剣なものではなく、「合歓の花」を贈った相手に対する挑発ないし切り返しと見てよい。ここにも、当然ながら、敬語は使用されない。

 紀女郎と家持は、別のところでも「君」―「(戯)奴」の言葉を用いた歌を残しているから、この二人は常々こうした関係の擬制を楽しんでいたのだろう。情痴の極みとも取れるが、これこそが、本連載の三回目でも述べたような、宮廷文化のありよう、爛熟した天平期の貴族文化の高みを示すものであるに違いない。

 さらにここには、敬語の使用、不使用の問題も絡んで来るから、それもまた『万葉集』の独自のおもしろさを見せてくれている。「君」から「吾妹子」への転換など、敬語を用いない平安時代以降の歌では、なかなかお目に掛かれない巧みさが現れているように思われる。

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