浪速のスーパーティーチャー守本の授業実践例

第三章 俳句

俳句について

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① 俳句の特徴――座の文芸として

鶏頭の十四五本もありぬべし   正岡子規

 正岡子規の有名な句ですが、この句をめぐってはいわゆる「鶏頭論争」なるものが起こりました。有名だからといっても、その評価が必ずしも定まっているとは限らないのです。

 この句の否定派は、「十四五本」という対象把握の仕方が面白いだけで、「花見客十四五人はありぬべし」でも「はぜ船の十四五艘はありぬべし」でも同じであり、対象の「鶏頭」については必然性はないものとします。また、この「十四五」という捉え方にしても「枯菊の七八本はありぬべし」でもかまわぬのではないかとも指摘し、表現の妙や新奇さはあるにしても、「鶏頭」にも「十四五本」にも表現の必然性を認めようとしません。

 これに対して肯定派の西東三鬼は「子規は十四、五本の鶏頭によって『己れの生の深処に触れた』のだ。強健無比の十四、五本の植物に彼は完全に圧倒され、自分の生命の弱小さをいやというほど見せられた」(山本健吉『俳句とは何か』角川ソフィア文庫)と指摘し、山口誓子は「鶏頭が立っている。群がって立っている。十四、五本に見える。あわれ、鶏頭は十四、五本もあるであろうか――鶏頭を、そうとらえた瞬間、子規は、鶏頭をあらしめている空間の、その根源にあるものに触れたのである。自己の"生の根拠"に触れたのである。」(同書)と論じています。

 この肯定派、否定派の差はどこから生まれるのでしょうか。それを考える前に、芭蕉について考えてみます。

行く春を近江の人と惜しみけり   松尾芭蕉 (『去来抄』)

 この発句も芭蕉の弟子の中では評価が分かれていました。尚白は「近江は丹波にも、行く春は、行く歳にもふるべし」(『精選古典 古文編』156頁2行目/『新編古典』158頁2行目/『古典』98頁2行目))と指摘しています。鶏頭論争の否定派と酷似していて興味深いものがあります。これに対して去来は、「尚白が難あたらず。湖水朧朧として春を惜しむに便りあるべし。殊に今日の上にはべる。」(『精選古典 古文編』156頁5行目/『新編古典』158頁5行目/『古典』98頁5行目))と言い、それを受けて芭蕉も「しかり。古人もこの国に春を愛すること、をさをさ都におとらざるものを。」(『精選古典 古文編』156頁9行目/『新編古典』158頁9行目/『古典』98頁9行目))と応え、我が意を得たりと喜んでいます。

 ここで重要なことは「今日の上」です。つまり、その場での実感に根ざしたものであるということです。去来の理解は、琵琶湖岸で芭蕉と近江の人が共に行く春を惜しんだその場を思い、そこに芭蕉の実感を見て取ろうとしているのです。そうすることで、その場の近江風景と文化・歴史に思い至るということなのです。

 「発句」は「座の文芸」である「俳諧の連歌」(連句)の第一句です。そのため発句は、その一座の中で理解され、共感されることが重要になってきます。そこでは、時節相応で、その場の光景を踏まえたものや、その座の主人や客への挨拶などが求められるのです。俳句の五・七・五という詩型も、原則として季語を必要とするのも、この「座の文芸」としての発句からきています。発句の創作にしても鑑賞にしても、その「座」「場」、つまり「今日」という視点を踏まえる必要があるのです。

 そういう意味では、「鶏頭」の句の否定派も、「行く春」の尚白も「場」への言及が乏しいように思えます。病床にあった子規が見て取った鶏頭という視点で、また風雅の伝統の地としての近江と、その地を愛した芭蕉という視点で読み解く必要があるのです。

 なるほど、子規以後の近現代俳句は「句会」という「場」に縛られない個人の創作による句が普通になってきましたが、やはりそこでも、「場」や「座」的な視点が必要なのです。

 確かに、「発句」に対して「俳句」の場合は、あくまでも作者個人の作業であるため、「座」に縛られることがなく、自由に作品世界を不特定多数の読者のために展開することができます。しかし、その不特定多数が普遍的な鑑賞ができるほどには五・七・五という詩型は十分であるとはいえないのです。経過や状況や関係を説明するには短すぎるのです。やはり、共通理解として、「何を」「どのように表現するのか」という決め事が必要になってくるのです。それが「発句」における「季語」であり、「切れ字」であり、その場での「挨拶」や「諧謔」などなのです。

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