ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 舞姫先生は語る第四回(2/4)
第一回 『舞姫』のモチーフについて
第二回 太田豊太郎の目覚め
第三回 エリス――悲劇のヒロイン
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
第五回 『舞姫』の政治的側面
第六回 結末
鈴原一生(すずはら・かずお)
元愛知県立蒲郡東高等学校教諭
第四回 太田豊太郎と近代市民生活
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豊太郎の母親の死

 思い悩むうちに、日本から二通の手紙が届きました。一通は母親の自筆の手紙、もう一通は親戚の者が書いた、その母親の死を知らせる手紙でした。しかも、それらはほぼ同時に出されたものでした。これは異常なことです。母親は五十路を越えていましたから、当時の寿命を考えれば老齢に伴う何らかの病気による死亡とも受け取れますが、患っていた様子もないし、原因となる病名も書いてありません。自然な死ではないでしょう。とすれば、死の原因は何なのでしょう。豊太郎はこの二通の手紙を受け取ったときこう言っています。

我が生涯にてもつとも悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。

 母親の手紙も親戚の手紙も同等の「悲痛」をもたらしました。母親の手紙には一体何が書かれていたのでしょう。私は息子である豊太郎の不行跡を諌めることが書かれていたと推測します。豊太郎の免官については当然、母親にも連絡があったでしょう。大きな衝撃を受けたことは容易に想像できます。母にとっては自慢の息子であり、唯一の生き甲斐でもあったでしょう。それが一転、破廉恥な行為を理由に免官になったのです。

 因みに、鴎外はドイツへの出発に際して天皇への拝謁を賜るという栄誉を受けました。当時の国費留学生は、それだけ期待されていたのです。貧しい日本が多額の留学費を工面してくれたことの意義は、母親も十分すぎるほど分かっていたはずです。母親としては世間に顔向けができない、国家に対しても申し訳ないと思ったでしょう。その時頭に浮かんだのは「諌死」ではなかったでしょうか。息子に成り代わって国家に謝罪し、息子を立ち直らせるために自ら死を選んだのだと私は考えます。

 日本には諌死の伝統があります。一例として、織田家の家臣・平手政秀がうつけ者と言われた信長の行動を諌めるために切腹したということがあります。さすがの信長も涙を流して反省し、以後立ち直ったと言われています。しかし、女性である母親がそこまでするであろうかという疑問が残ります。豊太郎の母について、鴎外は自分の母・峰子をモデルとしているのではないかと思います。前にも書きましたように鴎外母子は親子一体型の関係でした。母親は文字通り血のにじむような努力を重ねて林太郎を育てました。そのことを自覚していた鴎外は、生涯にわたってただの一度も母親に反抗したことはありませんでした。孝子の鑑です。養子である父・静雄は妻に頭が上がりませんでした。決して豊かとは言えない家計を上手に切り盛りし、家の中の一切を峰子は支配していました。このように有能で強い母親だったのです。豊太郎の母は、峰子のイメージに重なってきます。では、なぜ鴎外は豊太郎の家庭を父親不在にしたのでしょう。それは森家における父・静雄の存在感の希薄さが反映していると思います。

 静雄は、お城勤めを終えて帰宅すると好きなお茶をたしなむ程度で、おとなしく暮らしていました。実権はすべて妻が握っていたからです。先ほど述べたように、子供の教育もそうでした。鴎外が豊太郎の母親を「諌死」させた理由は、峰子を満足させるために、毅然たる母親像を描きたかったからではないでしょうか。鴎外はこの小説を家族と関係者の前で、弟の篤二郎に朗読させています。相澤謙吉のモデルである賀古鶴所(かこつるど)は、自分の兄貴分としての姿がうまく描かれているとして満足したという話が伝わっています。峰子も同様であったろうと思われます。

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