民を殺す国・日本 ─足尾鉱毒事件からフクシマへ

大庭 健

この国を規定し続ける「構造的な無責任」体制=国家教。フクシマも足尾鉱毒事件もこの体制が生んだ。この体制をいかに超克するか。倫理学者による渾身の書!

民を殺す国・日本 ─足尾鉱毒事件からフクシマへ
  • シリーズ:
  • 1,870円(税込)
  • Cコード:0336
  • 整理番号:
  • 刊行日: 2015/08/07
    ※発売日は地域・書店によって
    前後する場合があります
  • 判型:四六判
  • ページ数:304
  • ISBN:978-4-480-01626-3
  • JANコード:9784480016263
大庭 健
大庭 健

オオバ タケシ

1946年埼玉県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。倫理学、分析哲学を専攻。現在、専修大学教授。著書に『はじめての分析哲学』(産業図書)、『他者とは誰のことか』『権力とはどんな力か』『自分であるとはどんなことか』(以上、勁草書房)、『私という迷宮』(専修大学出版局)、『私はどうして私なのか』『「責任」ってなに?』(以上、講談社現代新書)、『所有という神話』(岩波書店)、『善と悪』(岩波新書)などがある。

この本の内容

チェルノブイリに次ぐ大惨事となった福島第一原発事故と、百年以上前に起きた足尾鉱毒事件。いずれも、この国の「構造的な無責任体制」に起因する。そこでは「国家の決定」が神聖視され、「知性の犠牲」を捧げてまで、その遂行が優先される。こうした体制=国家教の下で、足尾では企業による鉱毒垂れ流しのため村が廃村となり、森林は今なお回復していない。無数の人びとを見殺しにするこの国の「構造的な無責任」体制を超克するには何が必要か。倫理学者による渾身の書である。

この本の目次

第1部 津波に先立って(東フクシマ原発事故
「想定外」の事象による事故?)
第2部 足尾から東フクシマへ(殖産興業からアシオへ
「帝国の生命線」から総動員体制へ
戦後の復興と成長)
第3部 国家教―見殺しの制度化(集団と責任
官による「公」の簒奪
国家教はどのように存続してきたか?)
国家教に膝を屈しないために…

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