僕と数学との新しい出会い

山口県下関市立勝山中学校
二年 野村 舜

 僕は数学が嫌いである。担任の先生が数学の担当なので、このことは用心して隠しているが、実は小学生の時から一度も好きだと思ったことはない。何度も課題に向き合い、やっと解き方を覚えてスムーズに進むようになったかと思えば、すぐ別のパターンの問題が現れ、僕の前に立ち塞がる。この壁は僕の得意とする体力や気合では越えられない。不可解で悩みの種なのだ。学校では一応努力しているつもりではあるが、大好きな野球ほど熱心に取り組めず、逃げ腰であることは否めない。だから、「数学」と名のつくものにはなるべくかかわらないようにしてきた。
 大体、訳の分からない方程式が解けたところで僕の腹は一杯にならないし、世界平和もやってきそうにない。生活に役立たないものは価値さえないように思える。
 ところが、僕は偶然に出会ってしまったのだ。僕をとりこにする「美しい数学」に。
 きっかけは、母が読んでいたベストセラーになった小説だった。
 「江夏の背番号は完全数なんだって。」という母の言葉の、ただ『江夏』という部分だけに興味をもち、本を手に取った。しかしそれは僕に今まで感じたことのない興奮を与えたのだ。
 登場人物の生き方や『江夏』は僕をこの話にのめり込ませ、そして何より、完全数・友愛数といった「美しい数学」の存在を知らせてくれた。素数にかかわることだから僕でも理解できた。初めて数はおもしろいと思った。想像を絶する場所に住んでいると思われた世界中の数学者が、「友愛」などというロマンティックな世界を難しい顔をして、理解不能な計算式を使って研究しているのかと思うと、何だかおかしい気がした。こうして、僕とは縁もゆかりもなかった数学者の藤原正彦さんに、小川洋子さんという小説家を介して出会うことになったのだ。
 この数学者は、「数学はただ圧倒的に美しい」と言う。美しい数、美しい証明と文章の中には数学の美しさについて繰り返し述べられている。そして、その美しさとは秩序だとも。数学者とは、数に何らかの秩序を見い出したいものらしい。だから例えば、数に秩序のある証明は美しく、無秩序なものは醜いと言うのだ。
 しかも、数学者のその「美しい秩序」に対する執着心たるや、驚くばかりだ。特に名高いのが「フェルマー予想」と呼ばれる問題で、アンドリュー・ワイルズというイギリス人の数学者が一九九三年にその証明を成功させるまでに、なんと三百五十年もかかっているのだ。きっと世界中の天才数学者と呼ばれる人々が何人も挑戦し、砕け散ってきたに違いない。この証明にかかわったばかりに、一生何の成果もあげられないまま終わった数学者もいるかもしれない。たった一行の数式の証明に三百五十年!いったい何のためにここまで追い求められるのだろう。
 僕は本を読み返してみた。そして一つのことに気がついた。それは、「数学の世界では一度正しいと証明されたものは、永久に正しい」ということだ。こんな不変なものが他にあるだろうか。科学でも医学でも、正しいとされることは時々刻々と変化していくものだ。永久に変わらぬ「美しい秩序」に価値がないなんてどうして言えよう。僕は根本的に認識を誤っていたようだ。
 先ほどの「フェルマー予想」にしても、まだ証明されていないばかりか、正しいかどうかさえ三百年もたった今でも分かっていないという「ゴールドバッハの問題」にしても、解けなくても人類は困らないだろう。少なくとも僕の一生には全く無関係だ。しかし、数学者はそこに価値を見つけようと奮闘する。秩序と呼ばれる美しい世界を見つけるために。そしてその美しさは感動につながるのだ。
 実際、江夏の背番号と同じ数である完全数のことを知った時、こんな小さな数にこれだけの広い世界が広がっているのかと震えた。その他の数についての説明も、どれも驚きと感動の連続だった。数学者たちが言うように、数が「美しい秩序」をもって存在している数学の世界は、神の領域にまで入り込んでいるといわれても納得してしまう。
 確かに数学で腹を満たすことはできないかもしれない。しかし、その不変の美しさは僕にそうしたように、多くの人にも感動を与えてくれるであろう価値ある存在なのだ。
 数学の美しさを少しだけ感じられるようになった僕。その僕は価値ある存在であろうか。今すぐに人類に役立てるとは思えない中学生の力。親の承諾がなければ自身のことの決定権さえない未成年という不安定な年齢。しかし僕は僕。存在は不変のものだ。これが僕の価値なのだ。これから多少の波風がやってこようとも、自信を持って前を向き、その価値を確かめながら生きていきたい。それを考えさせてくれたのは、くやしいけれど数学だ。

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