東京の人

大村彦次郎

  昭和二年、東京の日暮里に生まれた吉村昭さんは根っからの町ッ子であった。ちょっとした言葉の言い回しや気の遣いかたに、東京人特有の気質がうかがえた。東京の町なかを歩いていて、変貌する東京の町のありように半ば愛想を尽かしながらも、それでもやはり東京の町が好きな人だった。

 巷の様子に詳しく、細い横丁や露地の人たちの暮らしにまでよく目が届いた。「昔、あそこに洋画の上映館があってね」などと、教えられた。タクシーに乗ると、「きみ、あそこの道は通れる筈だよ」と、運転手に指示したりすることもあった。

 敗戦まもなく二十歳の吉村さんは肺結核の末期患者であった。半年間で六十キロの体重が三十五キロにまで減少した。そんな大病の経験をしたせいか、吉村さんには生きるうえでの自分なりの流儀があった。みずからの真情をあからさまに吐露することを嫌い、はにかみや、謙虚さや、少々のことなら我慢する、といった、古い東京人の培っていた節度を弁えていた。

 対人関係においても、なるべく相手のよい点を強調して、全体を容認しようとした。しかし、物事や人間関係の基本に関しては、理非曲直がハッキリしていた。その二、三の現場に立ち会った私は、吉村さんのけじめのつけかたのきびしさに、むしろたじろいだ。吉村さんなりの好き嫌いの基準はいろいろあったのだろうが、相手の立場を考えない、手前勝手な人間には、いちばん我慢がならなかったに違いない。われわれはまた一人、昭和の戦前、戦後を生きた、さわやかな東京人を失った。

 文壇というものが今あるとして、吉村さんはそれまでの文壇が作り上げた良質な美学やモラルをだいじにした。そして文壇人として生きることに誇りを持ち続けた人、と思う。だが、作家は作品がすべて、と割り切って、孤独な創作作業に徹し、文壇付き合いというのを余りしなかった。畏敬するあまたの作家を持ったが、自分から近づくということはなかった。

 吉村さんは作家の書く作品は編集者との共同作業の結果だ、と常々口にした。それだけに締切は固く守り、担当の編集者に労を煩わせるようなことはなかった。手堅い稼業であった生家の、納期に間に合わせる、という慣習をそのままに引き継がれた。作家という特権におごらず、市井の一庶民として、できるだけ目立たないように過ごした。一人で出かける取材先で、刑事や工務店の請負人にまちがわれた、というのも、吉村さんらしい身の処しかたぶりである。

 いまから四十年前の一九六六年、昭和四十一年は吉村さんにとっては、まさに画期的な年であった。「戦艦武蔵」を発表して、新生面を開拓すると同時に、また「星への旅」で太宰治賞を受賞した。芸能界用語に〈化ける〉というコトバがあるが、この翌年、池波正太郎さんが「鬼平犯科帳」シリーズを書き始めて、大ブレークした。池波さんと吉村さんという、それぞれ資質の違う作家が同時に、大化けしたのである。

 吉村さんがそのあと着手した戦史小説あるいは歴史小説はおおぜいの読者を惹きつけた。作家にはその真価とは別に、多くの読者に受ける人とそうでない人がいる。吉村さんは本来、俗受けする作家ではない。しかし、「戦艦武蔵」以来、多くのファンの人気を集めた。吉村さんもかなりの数の作品を手抜きすることなく書き続け、読者の要望に応えた。

 たいがいの作家はある時期にはきわ立った仕事もするが、そう長くも続けられず、時どき休んだりしては、また書いたりする。だが、吉村さんの場合は、一貫した一本の道を地味に辿りながら、しかも最後に至るまで、現役として成長をやめることなく、そして多くの読者の信頼を失わなかったのである。作家としてこれ以上の面目と幸せに恵まれた人はそうザラにはいないと思う。
(おおむら・ひこじろう 元編集者)

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