あのころのこと

筒井ガンコ堂

 「あれ」からすでに四半世紀が過ぎた。もはや「昔」という言葉を使ってもおかしくない。私は六十二歳になり、しかも田舎ぐらしにすっかり馴染み、思考も恐らく大分鈍くなっている。その割には、煩わしいといっては罰が当たるだろうが、義理がらみの用事が意外に多くて晴耕雨読といった生活には程遠く、そんな中で、往時のことは思い出すことはほとんどなく、記憶は薄れる一方である。それでも、昭和五十六(一九八一)年、平凡社を辞め、新しい出版社に参加することを私が決心したのは、何より嵐山さんと行動を共にできる嬉しさからだった、と今でもきっぱり断言できる。

 嵐山さんは私より二歳上だが、平凡社にいるころからずっと、実年齢の差以上の格の差があった。私が入社した時にはすでに嵐山さんは社のスターで、その本名から、年上の人たちからは「ユーちゃん」、同世代以下の人たちからは「ユーさん」と呼ばれ、親しまれていた。そんな嵐山さんと私が席を並べるようになったのは入社二年後、「太陽」編集部に配属されてからである。

何かと要領が悪く、融通のきかない私に比べて、嵐山さんは常に輝かしい存在だった。当時、類誌の少なかったグラフィックな「太陽」の誌面で、次々に目覚ましい企画を実現していた。雑誌部のエースだったのである。その間、嵐山光三郎の名で執筆活動も盛んにしていたから、嵐山さんにとってはさぞかし充実した日々であったろう。

 そんな格の差はあったが、西巻興三郎というボス(「太陽」のデスクだった)をともに師匠として仰いでいたこともあって、嵐山さんと私は、兄であり弟であることができた。それかあらぬか、嵐山さんが「太陽」編集長になった時、私をデスクに指名した。私は疾走する嵐山さんに必死でついて行った。そして二年後、平凡社が経営危機に陥った——。そこから『昭和出版残侠伝』のものがたりが始まる。

 さて、七人で始めた新しい出版社の統領は無論、本文中にある通り「ババボス」馬場一郎氏だったが、要(かなめ)になったのは紛れもなく嵐山さんだった。漢(おとこ)・嵐山は潔くその役割を引き受けたのである。

 先にも書いた通り、嵐山さんはすでにペンネームでの執筆活動も軌道に乗っており、業界にも広く知られていて、今更、零細出版社に参加する必要などなかった。それを敢えてしたのは偏に馬場一郎氏に対する義理だった。「残侠伝」とは正しく言い得ている。

 さらに、自分を慕って集った私たち五人に重い責任をも感じたのではなかったか。海のものとも山のものとも分からない新会社に参集した若い者たちを路頭に迷わせるわけにはいかないという兄貴分としての男気、侠気である。やはり「残侠伝」である。

 もちろん、根っから雑誌づくりが好きでたまらないということもあったろうが、侠気こそが嵐山さんの青人社参加の主な理由だったと思えて仕方ないのである。

 青人社での日々のありようは、少しの誇張や修飾はあるものの(例えば、私は嵐山さんにぞんざいな口をきいたことはなかったし、カラオケで迷惑をかけてはいない、はず)、概ねこの本に書いてある通りだった。こんな出版社が在ったのかと読者は呆れられるかもしれないが、確かに在ったのである。毛色の変わった種々の来客があった。若いライターも頻繁に出入りした。彼らの多くは連日、夕方からの社内宴会に加わった。

 長原という土地にも馴染んだ。麹町との違いを楽しんだ。界隈の飲食店で足を運ばなかった店があったろうか。五反田、蒲田でも盛んに食べ、飲んだ。私たちは十分、若かった。

 当然、仕事もした。「ドリブ」売上増のために精一杯励んだ。嵐山さんは「嫌いだ」と書いているが、編集会議も定期的に行った。近くの曖昧宿と特別交渉して、泊まり込みの作業も行った。その中心にはいつも嵐山さんがいてくれた。それらの逐一は私はもうほとんど忘れてしまっているが、濃密な日々であったことだけはおぼろげに思い出すことができる。

 それにしても、嵐山さんの強記には驚く。いずれこの本を書こうと思いながらあのころの日々を過ごしていたのだろうか。まさか。

(つつい・がんこどう エッセイスト)

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昭和出版残侠伝

昭和出版残侠伝

嵐山 光三郎 著

定価1,575円(税込)